時のかなたに街遠く_消えた丘、生まれた街_その3

まだほんの少し残されていた、そこが昔丘陵地であった頃の名残(なごり)が消えました。

春の光に呼び寄せられたように、その場所を訪れるのは50年前も今回もどちらも3月。

うちなびく

春さりくれば小竹(しの)の末に

尾羽うち触れて うぐいす鳴くも

大伴家持

万葉集では篠(しの)には「小竹、細竹、四能(琴・棋・書・画の4種の芸能)」の字が充てられ、群竹のしなやかに靡びく姿が詠まれます。

Schiller – Once Upon A Time(2008年)

消えた雑木林

今年の3月頃、いつものように車で篠ノ風にある「滝丿水住宅北」という交差点に通りかかったとき、感じたのは「あれ、ここって、こんなに見通しがよかったっけ?」という違和感。

思い出してみれば、ここにはこんもりとした森のようになった雑木林があったはず。

ついこの間まであったその緑が突然消え去っていたのでした。

そしてそこは、篠ノ風にあった「鳴海ゴルフ練習場」の外周の一部分で、かっての丘陵地がそのまま50年間残されていた場所。


取り戻した記憶

2020年に『消えた丘、生まれた街』を書くために昔の写真に写った地点について古い都市計画図などで調べていたところ、その写真を撮ったのがちょうどその雑木林だったことが分かりました。

そこで同じ場所に再び立ってみようと訪れたのは翌年の春。

「篠丿風」の地名にふさわしい自生する篠で縁取られた雑木林は、過ぎ去った50年の年月に雑木も大きく成長して絡みあい、もう林の内には入ることはできません。

しかしそこは確かに覚えのある場所でした。

2021年3月

それからちょうど一年後、雑木林は突然その姿を消したのでした。

2022年3月

いままで残されていた事情は分かりませんが、緑地帯としてはあまり手入れされておらず、遊休地だったのでしょう。


盛り土

伐採された雑木林の一角に盛り土が残されていました。

現在は交差点から北方面は緩やかな下り坂になっていますが、当時は丘陵地の頂上に向かって6mほどの登りになっていましたので、その盛り土部分の高さがちょうど当時の雰囲気と重なります。

盛り土になった部分にあった雑木林

ちょうど50年前、この盛り土に立って右手(北西)方向に向かって撮影したのが下の写真。

滝丿水住宅北から鳴子方面(1971年)

さらに、そこから300mほど東、現在の神沢二丁目にあたる場所へ移動して写真に収めています。

この丘陵のどこまで続くのか知らない道は、不思議な空気で満ちていました。

時折聞こえる雲雀のさえずりと自分の足音以外はなにも聞こえないのですが、静けさとはほど遠く、雑木たちの春の息遣いに包まれている感じ。

整然とした緑道の清々しさでも緑で覆われた山道の息苦しさでもない、乾いた土の匂いに混じって、ときおり鼻をかすめる松林独特の匂い。

両側を背の低い松で覆われた土手に囲われた前後しか見通しの利かない道をひたすら歩いていると、今いる場所がどこなのかわからなくなります。ときおり土手に見つける脇道から雑木林に分け入り、視界の開けた崖縁から自分の知る街の姿を見つけて、現在の居場所を確認したり。

春の青天のもと、そんなことを繰り返しながら道を進んでいると何だか別世界にいるようでワクワクして楽しかったことが思い出されます。

路中に山桜が一本だけ生えていて、これも目印。(1971年)
現在の神沢二丁目付近から相生山方面(1971年)
右手奥の緑が篠丿風の丘陵地帯(1971年)

これらの写真をプリントからデジタル化したのは10年前。ところがその後プリントの退色がひどくなり、今スキャンしても、もうあの青空は戻ってきません。


再び2022年春

遠い過去の記憶と現在をリアルに結んでいた雑木林が消え去り、記憶だけに残る青空がまたひとつ増えたのでした。

冬景色のなかに

2012年

それでも、冬になり雪に包まれて白黒の世界となったとき、ほんのり昔の面影が蘇ります。


消えたもの、もうひとつ

失われた緑といえばもうひとつ、2021年末に始まった篠丿風と滝の水公園を結ぶ道路の一部で街路樹伐採がありました。

植えられていたのはウニのような実と紅葉が美しい紅葉葉楓(モミジバフウ)

現在名古屋市では街路樹について、植栽後40年以上が経過して大木化や老朽化、生育環境の悪化が進み、従来の維持管理手法では解決できない多くの課題を抱えています。

そこで、2025年度までの5年間に30億7700万円程度の更新・撤去費用を投入する他、年間7億円程度の剪定費用を投じる「街路樹再生なごやプラン」がまとめられました。

簡単に言えば、今後5年間かけて街路樹の更新や狭い歩道からの撤去をするということです。

今回の篠丿風路線の工事は「街路樹再生なごやプラン」候補路線図には記載されていません。ガードレールも新設されたことからどうやら別の道路整備事業のようです。

実は、篠丿風の歩道の街路樹については、あまり記憶にないのです。

1970年当時は道路の右手はまだ10メートルぐらいの高い崖で、道路に街路樹は植えられていませんでした。

多分、1989年の滝の水公園の開園に伴って街路樹植栽路線として整備されたのだと思いますが、とくに篠丿風一丁目から篠の風商店街のあいだは道路整備より先に住宅街として開発されていましたので、街路樹の植栽には少々無理があったようです。

30年近くの年月が経て、歩道幅が他より狭くその半分を街路樹が占めていたうえ、根上がりがひどくて歩きづらい歩道になっていましたので、安全上からも街路樹の撤去は仕方がなかったかもしれません。

そして2022年、街路樹が撤去された道路の上は再び昔と同じ広い空となりました。

ただ、歩道は広くなって歩きやすくなったのですが、自転車の並走や坂道特有のスピードの出し過ぎなどの事故が増えるようが気がして心配。

やはり心配する人が多かったようで、歩道にはこんなシールが貼られました。

さらにもうひとつ、消えるもの。

相生山にダイエー鳴子店が開店した1972年、東京銀座に集合住宅「中銀カプセルタワービル」が完成しました。

このビルは3階以上に140個の丸い窓をもつ住居用カプセルが取り付けられた奇妙な外観で有名でしたが、老朽化のため 4月から解体工事が始まるそうです。

Wikipedia

家電が組み込まれた造り付けの家具が設置された内装は、当時としてはかなり未来的な発想でした。

Wikipedia

なんとなく『フィフス・エレメント』(1997年)で登場した2263年のタクシードライバー、コーベン・ダラス(ブルース・ウィリス)の住むマンションが思い浮かびます。

Fifth Element – Bruce Willis talking to Finger

残念ながら窓は開きませんので屋台を横付けできませんが。

The Fifth Element – Leeloo – “Chicken…good!”

コーベン・ダラス自身も

米アクション映画「ダイ・ハード」シリーズなどで知られる米俳優ブルース・ウィリスさん(67)が、失語症の診断を受けたため俳優業から身を引くことが、30日に明らかになりました。

2022年3月

映画界から消えたブルース·ウィリスの最後の告白

本日の一曲

SCHILLER – Lichtermeer(2013年)

“時のかなたに街遠く_消えた丘、生まれた街_その3” への 5 件のフィードバック

  1. お久しぶりです。今日から4月です。新年度が始まりますね。滝の水~篠の風の街路樹が無くなりましたね。この辺りは、確か同級生が何人かいたはずです。当方は鳴子小➡鳴子台中出身です。たしか鳴子台中から戸笠中に分かれたと記憶しています。あれ以来会っていない同級生今どうしているのかな? 元気にしているかな? 篠の風の街路樹が無くなった実家に戻るときにいつも、通っています。母親が高齢になったせいもあって、良く鳴子に戻るようになり、貴兄のブログを読むたびに今の景色と、思い出の景色を比べています。変わり行く街の景色を眺めながら
    この街の時はきっとゆっくりと流れていくでしょうね。

    1. 稲生さん、お久しぶり。

      7ヶ月ぶりのブログ更新となりました。

      ここ数日で滝丿水公園、ほら貝池、戸笠公園の桜がいっせいに満開になりました。これで土日の天気が晴れればいいのですが。

      どうやら今回の街路樹の撤去工事は、他県で起きた事故から通学路として歩道幅を広げてガードレールを設置する道路改良工事だったようです。(鳴子地区も工事が行われました。)ただ、秋にモミジバフウの紅葉が見られなくなったのは、少し寂しい気もします。

      中学校といえば、弟が進学するとき鳴子台と神沢のどちらにするのか選択制だった覚えがあります。神沢中学校は鳴子台の分校として設立されましたので、知っている先生も何人かは鳴子台から移っています。このため、鳴子みどりケ丘のバス停で懐かしい先生たちと出会うことがありました。

      篠丿風も少しづつ沿道の店が変わったり、建物が建て替えられたりしていますが、団地のある鳴子と違って戸建住宅街ですのでこのまま静かに時が過ぎていくことでしょう。

      1. 返信ありがとうございました。今週、実家の母の様子を見に行った時に鳴子4丁目近辺は、なかなか再開発が進みませんね。カンテにはいまだに商店街が入っていません。何だか寂しい街並みですね。母はここで53年間飲食店を営んでいました。町の寂れとコロナから、昨年の2月に閉店をしました。ここに、家族と越してきたのは団地が建てられて直ぐの事です。平成に入り結婚を機に鳴子を出ました。年齢を経たせいでしょうか、なぜか鳴子を懐かしく思い出します。SUDAREさんの当時の懐かしい、貴重な写真をまたの機会是非UP願います。季節の変わり目ですので、ご自愛ください。

  2. sudareさん、はじめまして。
    私は1975年生まれ、78年から2012年まで篠の風付近に住んでいました。戸笠小→神沢中です。
    ダイエーのことが懐かしくなり、ネットサーフィンをしているうちに、こちらにたどりつきました。たくさん読ませて頂きました。写真はどれもこれも懐かしすぎて、特に市バス乗車のYouTubeは子供の頃が甦り涙が出ました。
    人工スキー場もオートテニスも覚えています。夏の夜にはパジャマを着た状態で父と夕涼みの散歩をしながら、テニスをしている大人達を眺めていました。篠の風商店街の文具店シノヤさん、八百屋さんの駄菓子もよく通いました。
    鳴子の商店街、鳴子百貨、ハローフーヅ、松坂屋ストア、ヤマナカ、ジャスコも母によく連れていってもらいました。松坂屋ストアの2階の家具屋?で、勉強机を買ってもらいました。鳴子南交差点近くのおもちゃ屋で父に浮き輪を買ってもらい、市営プールに連れていってもらいました。
    思い出がいっぱいです。子供ながら、篠の風や滝の水の開発による自然破壊にとても心を痛めていました。
    今は名古屋市外に住んでおり、懐かしい話ができるのは母のみですが、こんなに懐かしく感動できるサイトに出会えて、うれしい限りです。
    またの更新を楽しみに待ってます!!
    長々と失礼しました。

    1. くーちゃんさん
      78年といえば自分が一度離れていた鳴子にちょうど戻った頃。
      ちょうど地下鉄鶴舞線が赤池まで延長されたので、鳴子住宅北口から篠丿風、ほら貝経由で原駅を利用していました。
      まさに YouTube 『名古屋市営バス 幹線5系統「新瑞橋→地下鉄原」』の路線です。
      ただ9年後の87年ということで人工スキー場の姿はすでにありませんが、それでもよく残されていたものと感心しました。
      (当時すでにビデオカメラで遊んでいましたが、この発想はありませんでした。今思えば、もっと身の回りの風景を撮っておけばと残念しきり。)

      古い鳴子についてのブログについては、もう少し内容に手を入れられればと考えています。しかし当時の友人たちに聞いても皆記憶があいまいになっていて、なかなか思うように捗っていないのが現状です。(気長にと思っていますが、それではみんなもっと忘れてしまいそうですし。)

      思い出したことがあれば、また更新するつもりでので気長にお待ちください。

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