ほんの数百メートルのかよい道_鳴子ダイエー物語 2

ダイエー鳴子店は天白区の「久方」にありました。ところが「鳴子」という地名は緑区にあります。鳴子と久方は田畑が横たわり、行き来の少ないまったく別の街でした。 …

名二環の鳴海ICが実際の鳴海よりもずっと北東にあるのと似ています。そういえば、鳴海ICにある西友も「鳴海店」となっています。地元の歩く感覚からすれば違和感があるのですが、東海道五十三次の「鳴海宿」のほうが全国区に有名なので仕方がないのでしょう。

その鳴子からダイエー鳴子店へのほんの数百メートルの道は、「道というものは生まれ、育っていく」ということを教えてくれたのです。

1968年頃の航空写真。まだ昔からの田畑が広がっているだけ。
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戸笠池付近で見つけた当時の電柱
ボート乗り場があった頃の戸笠池(1971年)
この埋め立て地の上にダイエーが建てられました。(1971年)
相生山団地の南斜面にはこんな風景が広がっていました。(1971年)
鳴子と久方(相生山)を結ぶ道路はまだありませんでしたので、こんな田んぼ道を通って相生山のバス停に通っていました。

ちなみに小学校の一年先輩の竹下景子さんは、南山高校に通う時この道を利用していてよく出会いました。彼女の住んでいた鳴子団地からはかなり距離があるのに女の子ながら毎日よく歩いたものですね。

1971年頃、ダイエー鳴子店が開店する少しまえに区画整理事業が始まり、一段低い田畑が盛り土されて造成されて新しい地区が誕生しました。

工事中でも道路を通ることができたのでバス停に通うのが楽にはなったのですが、雨の日の翌日はたいへんでした。

盛り土したばかりの道路は踏み間違えるとひざまで沈んでしまい、身動きができなくなってしまいます。やっとのことで足を引き抜くと今度は穴の奥に靴が残ってしまい、それを引っ張りだすと全身泥だらけといったことがありました。

これは閉店前のダイエー鳴子店内に掲示されていた開店当時の1972年頃の写真。

手前は東海通(名古屋市道東海橋線)なのですが、当時はそんな名前もなく、中央分離帯の柵もありません。ほとんどの車は相生山交差点を島田方面へ北進していき、東方面は空き地同様で全面横断歩道状態でした。

ダイエー鳴子店が開店してから5年過ぎた1977年頃の航空写真。造成地にはまだ建物がちらほらといった感じです。

この写真は国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」から見つけました。70年代・80年代の懐かしい風景がよみがえります。

地図・空中写真閲覧サービス

そして2013年の風景。何事もなかったように街になっています。ただ、遠くに垣間見える相生山の緑だけは今も変りません。

この道を歩いてダイエー鳴子店に行くことはもうないのですね。

そして2021年


名曲探訪 ・「新日本紀行」 富田勲 / Isao Tomita

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