故郷といえば山里の風景を思い浮かべることが多いのですが、消え去った丘陵地の風景もまた心の故郷と思うのです。
秋。誰もいない丘に立ち、枯野を吹き渡る淡い風の音が好きでした。
わが屋戸の
いささ群竹(むらたけ)吹く風の
音のかそけき この夕べかも
大伴家持
万葉集では篠(しの)には「小竹、細竹、四能(琴・棋・書・画の4種の芸能)」の字が充てられ、群竹のしなやかに靡びく姿が詠まれます。
今回はローカルでほんの小さなエリアのお話。
SCHILLER: „Universe” / mit Tricia McTeague(2019年)
映画『平成狸合戦ぽんぽこ』に描かれた、東京近郊にある多摩丘陵の開発が始まったのは1969年。
それより遡ること10年ほど前、狸の反対騒動こそありませんでしたが、名古屋東南部に広がる丘陵地帯でも同様なことは起きていたのでした。
「篠の風」と「滝ノ水」
名古屋市にある鳴子団地の東南には風流な地名が並びます。
ただ、この篠の風から滝の水公園(実はここも篠の風の一部)へと続いていた丘陵のことを覚えている人は、もうほとんどいないかもしれません。
実際名古屋でもかなりローカルなところなのですが、実はインスタ映えスポットとして有名な場所となっています。
もし、ここを訪れることがあればこれから語る昔の姿も思い起こしてください。
■ 白い痕跡
名古屋薬学専門学校(1931年~1951年)
かっての丘陵地にある滝の水公園の場所には、1951年まで名古屋市立大学薬学部がありました。
名古屋薬学専門学校では、ガソリン配給制限により実習で使用するエアーガスが作れなくなり、都市ガス(石炭ガス)の受けられる名古屋市内への移転希望が高まっていた。加えて、愛知郡鳴海町の校地の水道水は鉄分・ケイ酸が多いため水道管が詰まり、実験に支障をきたしていた。
Wikipedia
白色の土
名古屋東部の丘陵地帯(尾張丘陵)
篠の風から東南方面には約6400万年前~170万年前にできた「東海層群」という火山灰層が広がっています。東海層群は粘土と石英粒子の多い砂層のため、鳴海丘陵には平安時代から鎌倉時代にかけて多くの窯場があったそうです。
とくに滝ノ水付近での砂礫層の発達は著しく、白色に風化した流紋岩礫を多量に含む礫層が3~4枚発達しています。
移転
1950年に名古屋市立大学薬学部となった名古屋薬学専門学校は1951年に瑞穂区へ移転。
しばらくの間、名古屋薬学専門学校の痕跡は白くはっきりと残されていましたが、1959年の伊勢湾台風をきっかけとして姿を消すことになります。
・1959年7月 名古屋市立大学薬学部跡にごみ埋立場開設
・1959年9月 伊勢湾台風
■ 60年代
名古屋の果てのこの地に引っ越してきたのは1965年の夏。
1960年に起工した鳴子団地は1962年竣工、1965年に全2107戸が完成して一段落。さらに東へ開発が進み始めた頃。
工場と団地と繁華街とが入り混じり、ほとんど自然のなかった北部の街から、ある日突然、里山のようなところへ移ったのですから、はじめは驚きの毎日でした。
丘陵地帯の篠ノ風地区はほんの少し宅地造成が始まったばかり。目の前に迫るのは、丘陵の裾野とまるで巨大かまぼこのような切土の法面。
「ゴミ山」
当時、ベランダから見える緑の丘陵の向こうには「ゴミ山」と呼ばれる茶色い禿げ山が見えていてました。
ボヤ騒ぎで煙が上がったり、台風の時にはそこから色々な物が飛んできたり。しばらくするとその上空にはカラスの大群が飛び交うようになりました。
ヘンな山だと思っていたら、そのうち伊勢湾台風のごみ処理をしたところと知ります。
ただ、偶然にもごみ埋立場として開設されたものが、直後に襲った伊勢湾台風の瓦礫処理に利用されたのが実際の経緯のようです。
風物詩
この頃のこの地の風物詩といえば、
春には、頭上の晴れた空に舞い上がる雲雀がさえずり、足元には目玉模様のアゲハの幼虫が黄色いツノを立てて道を進みます。
夏になれば、網戸を抜けてカチンカチンと蛍光灯に集まる、時々チクっと刺さされるツマグヨコバイを捕まえていると、窓の外からは何度となく蛍光灯の故障かと勘違いさせられた、クビキリギスの電気の変圧器のような鳴き声。
遠くから響く「ブオー、ブオー」とウシガエルの声。
朝になり、ドアを開ければ階段の壁に張り付いているのはクワガタやオニヤンマ、ときにはドグガまで。
坂を下れば、干からびたムカデの死骸。見上げる住宅の擁壁(ようへき)には「マムシに注意」の看板。
近くに残る田んぼではトノサマガエルの大合唱。
池では餌に元手がかからないザリガニ釣り。
雷魚がいるとの噂にヨツアミ(四手網)で恐る恐る浚った用水路で捕まえたのは小さな鮒だけ。
秋になれば、エンマコオロギを始めとして「遠くにありて思ふもの」ならぬ「草むらにありて聞くもの」と思い知らされたキリギリス、ウマオイ、クツワムシの大音量。
とくにムカデについては、隣接する相生山が本場で天井から落ちてくるヤツに10年ほど悩まされました。
名古屋市内に産する重要種としてトビズムカデ、アオズムカデがある。日本に産するオオムカデ類のうち、トビズムカデとアオズムカデはオオムカデと同一種で、それぞれが別の亜種として取り扱われている。 近年、アオズムカデを独立種(S. japonica)とする分類学的研究が報告されている。
名古屋市:ムカデ・ゲジについて_名古屋市暮らしの情報
鳴海丘陵
丘陵へと続く道にあった藪の中には雉やタヌキの姿も。
丘陵に分け入れば、
夏のあいだはヘビが出そうな篠ノ風の丘陵には近づかなかったのですが、母親は平気で分け入って中央部の湿地帯から鷺草(サギソウ)や水苔(ミズゴケ)をバケツいっぱい取ってきていました。たぶん、若い頃に山の学校で教師をやっていたので慣れていたのでしょう。
たまに一緒に丘陵へ入って行ったときに「それはウルシだから近づくな」といわれた木は秋になると真っ赤に紅葉していました。
こんな感じなところでした。
1965年(右から篠ノ風の丘陵麓、螺貝池、奥は造成中の螺貝)
・1967年3月、名古屋市立大学薬学部跡地はごみ埋立場としての役割を終了します。
篠ノ風の宅地化
60年代の終わりまでに丘陵がまるでケーキのように削られて、商店街と戸建ての住宅地(篠の風一丁目)が誕生しました。
それでも丘陵の東半分はまだ残されていました。
芋畑
鳴子から万場山の畑地を抜けたところに父親がよく通っていたゴルフ練習所があり、帰りに農作業していた人から芋をもらってくることがありました。
ゴルフ練習所の入り口には丘陵地帯を東西に横切る道があり、よく探索に出掛けたもの。その道は中学生のときの春の遠足コースにもなっていて鳴海東部小学校まで歩きました。
灌木林
このあたりの丘陵地帯にはもっと背の高い樹木が生い茂っていてもよさそうなのに、背の低い灌木林で覆われていることが多かったのが不思議で印象に残っています。
林野利用統制が緩んだ明治初期から中期にかけての濫伐と、第二次大戦中の爆撃による山火事、戦中、戦後の燃料不足時代の濫伐などの影響だったのでしょうか。
■ 幻の地下鉄路線
1965年の名古屋都市計画基本図で見つけたのは高速度鉄道予定線。
そう言えば、地下鉄桜通線は野並から滝ノ水を通って藤田医科大学まで延長される予定という噂があったことを思い出しました。ところが推進していた有力議員が亡くなってしまい、その計画は変更されたのだとか。
調べてみれば、確かに名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網には「旧名薬専前」つまり名古屋薬学専門学校跡地の名前がありました。
もし、この計画通りに相生山から篠の風を抜けて滝の水公園まで地下鉄が引かれていれば、この地域一帯は現在とは違った風景となっていたことでしょう。
NEXT → 時のかなたに街遠く_消えた丘、生まれた街_その2
本日の一曲
Joe Hisaishi – One Summer’s Day(2001年)
1958年生まれ。1967年から1978年まで相生山団地に住んでいました。小学生だったこともあり、ダイエーができる頃まで、鳴子団地は遠かった。間は農地でしたね。中学生になると自転車で本屋などに行ってました。
ダイエー前史。懐かしい景色を見せてもらいました。ありがとうございました。
確かに、当時は鳴子団地と相生山団地はまるで互いに海を挟んだ島を望むようでした。それでも高校に通うためのバス停が相生山住宅でしたので、毎日、畑道をせっせと通っていました。そのうち相生山や一ツ山に住む友人も増え、新しく道ができダイエーがオープンしたりして相生山もずいぶん身近になりました。懐かしい思い出です。
相生山住宅のバス停は、私も高校に通うのに使っていました。3年違いだと丁度入れ違いでしょうか。野並あたりから天白中学の生徒がたくさん乗ってきて、よく満員通過をされたものです。