大好きな写真の一枚。
この屋根の上にいる赤十字マークの犬は多分、動物病院の看板でしょうか。
これは50年以上前、かって名古屋の池下地区にあった『日本住宅公団 池下アパート』とその周辺を撮ったものです。
Simon & Garfunkel – So Long, Frank Lloyd Wright
■ 昭和な風景
コールタールの塗られた木製電柱と網の目に張られた電線、屋根上の物干し、コンクリートの柱と手すりが象徴な建物、現在のように幼稚ではない、大人の雰囲気を漂わす女子高生がのんびりと横切る広い道路、ダイハツ・ミゼットの走る道路の奥の方に走る市電、なんと昭和な風景。
今はほとんど姿形を留めているものはありません。
■ 都市の不燃化高層化を図る市街地住宅
ネット上には「1997年に公団 池下団地を再開発」という情報ばかりで、肝心の『日本住宅公団 池下アパート』についてはほとんどありません。
名古屋市の都市計画概要 2013 の 6-4 市街地再開発事業に
昭和36年建設の住宅・都市整備公団の池下団地があったが、住宅設備の老朽化や住戸規模も小さくなったことから建替えの必要性が出てきた。
という記述を見つけ、やっと1961年という竣工がわかりました。ただ、都市の不燃高層化を図る市街地住宅という多分当時としては画期的プロジェクトだったはずの『日本住宅公団 池下アパート』の詳細な資料をみつけることはできていません。
サンクレア池下の建設された94年からの池下第一種市街地再開発事業も大規模でしたが、58年から始まる錦通り露天掘りの地下鉄東山線延長工事、愛知淑徳中・高等学校校舎移転、池下アパート建設、操車場の池下工場転用工事、池下駅開業、市電廃止などの工事が目白押しで、この時期も池下が大きく変化した時期であったことが想像できます。
■ 最初の池下地区再開発
1958年(昭和33年)名古屋市都市計画基本図
1958年(昭和33年)12月10日 : 池下電車運輸事務所閉鎖、同日付で池下電車臨時操車場
1959年(昭和34年)愛知淑徳中・高等学校校舎移転
1959年(昭和34年)6月10日 : 池下電車臨時操車場としても廃止
1960年(昭和35年)6月15日 : 地下鉄 池下駅開業、池下工場に転用
1961年(昭和36年)5月15日 : 地下鉄東山線建設のため、市電東山公園線 覚王山 – 星ヶ丘間運休
1963年(昭和38年)4月1日 : 地下鉄東山線 池下 – 東山公園間が開業
1965年(昭和40年)名古屋市都市計画基本図
1965年(昭和40年)3月1日 : 市電覚王山線 今池 – 覚王山間廃止
池下駅地下に謎の空間
市営地下鉄東山線で出勤していてずっと気になっていた。高畑行きの列車が池下駅を出た後、右側の窓の外に広がる暗がり。線路もほの見える。一瞬だけ姿を現すあの空間は何なのだろう。秘密の行き先や秘められた物語があったりはしないか…。
地下鉄関連の本で、池下駅についての記述を調べた。1960年、東山線が池下駅まで延伸した時に「池下車庫」を設けたとの記述が見つかった。これは手がかりになるかも、と勇躍して、かつて同車庫で働いていた大須賀広郷さん(64)、上床清さん(72)を相次いで訪ねた。
ナゾの線路の存在を説明すると「引き込み線だよ」と大須賀さん。終点の池下駅に着いた電車はこの線路を通って車庫に向かったという。上床さんによると、この車庫には車輪の手入れに使う転削機も備わっていた。当時、全国に数台しかなかったらしい。しかし、そんな最新鋭の車庫にも弱点があった。
「雪の日や、故障して戻ってきた電車を地上に出すのは大変だったよ」と大須賀さんは遠い目をした。地上の狭い車庫に車両を出すため、引き込み線はかなりの急坂。雪の日は滑り、また故障して性能が落ちた電車は坂を上りきれず、他の電車で押したり引っ張ったりして何とか運んだことも。
一緒に往事を想像していると、大須賀さんがさらに気になる一言。
「ここは建物が特徴的でね」
車庫建設の際に愛知淑徳高校の敷地を買収し、一方、同校は手狭だったこの地から現在の千種区桜が丘へ移転した。大須賀さんが「車庫の事務所と教習所は高校時代の建物をそのまま利用していたんだよ」と言えば、上床さんも「頑丈なコンクリートの建物だった」とうなずいた。
地下鉄で星ケ丘駅に近い愛知淑徳学園へ向かう。同校の100年史でも2人の話が確認できた。元校長の富永伸さん(83)が「大切に使ってもらえたようで何より」と話す。再利用されたのは講堂と東校舎で、特に前者は「母校に講堂を」という生徒や父母からの募金で建てたものだった。市に土地を売却する際、「できれば解体ではなく有効活用を」と要望していたそうだ。
車庫は69年の藤が丘移転で廃止となり、跡には今年10月に閉館した旧愛知厚生年金会館が建った。
今回、市交通局の許可を得て地下に入らせてもらった。気になっていた引き込み線の線路は同会館敷地との境に当たる地下部分で切れ、暗闇には線路保守用の機材がひっそりと置かれていた。
2008年12月8日 中日新聞
そして『日本住宅公団 池下アパート』の現在。その跡地にはサンクレア池下が建っています。
■ 『池下アパート』写真集
ということで残念ながら詳しいことをお伝えすることができませんので、ここからは手持ちの写真のいくつかを並べてみるだけにします。
多少変わっているとすれば、建設当事者側の目を通して見た風景ということ。当時の明るい未来があった高度成長時代の幕開けの雰囲気を感じます。
昭和30年代の団地の建設過程の写真でした。
これって本当は貴重な資料かも知れませんね。
はじめまして。
驚きと懐かしさのあまり食い入るようにこのページを見てしまいました。わたしはこの池下第一公団に住んでました。1階の名鉄ショッピや地下道入口にあった喫茶店、フクちゃんのアンパン・・・あぁとても懐かしいです。池下は今よりあの頃のほうが賑わっていたように思います。
楽しんでいただいて、ありがとうございます。
この写真は父親の遺品から見つけたもので、昭和30年代の雰囲気が色濃く写されているこの数々の写真に魅力を感じ、ほんの少しの人でいいから懐かしんでいただけたらとアップしたものです。
実際は、当時自分自身 6歳の頃の話なのでよく知らないのです。
そしてこの記事を書く際にネットで調べてみても「池下アパート」に関する話題はほとんど見つけることができませんでしたので、当時お住まいの方々が「池下アパート」に何を感じていたのか知るすべもありませんでした。
でも、今日やっと(もう数少ないと思われる)元住民の方に見つけていただいてよかったと思います。
このような写真はUR(独立行政法人都市再生機構)にはまだ記録として残されているかも知れませんが、デジタル化して公表されることもなく消え去るものもかなりあると思うと残念なことです。
ついに見つけました、私もかつて住んでおりました
池下アパートのサイト。
退去して約20年後に一度だけ訪れてその時
撮影をしました。しかしここにあるのは建設途中や
竣工後間もないまだ未入居の画像・・・すごいです。
特に室内の画像を見た時は、もう2度と見ることができない
と思っていたあの部屋が・・・
最近こんなに驚愕したことはありません。
本当に御礼を申し上げたいです。
ご指摘の通り、たまに池下アパートについて
検索するも殆ど見つかりませんでした。
これは第1級の資料、記録ですね。
それに画像だけでなく池下アパートプロジェクト
の沿革についてまで記述があって、そういう経緯だったのかと
非常に興味深く読ませて頂きました。
このサイトがなくならず、当時の住人の方が
一人でも多く見つけてくださることを私も祈りたいです。
退去の日のことは今でも覚えています。
楽しんでいただいて、ありがとうございます。
ここ数年、耐用年数の過ぎた建物がどんどん建て替えられていて名古屋の街も加速度的に変わってきています。そこで、消えていく自分の関わった建物を少しでも残そうと暇を見つけてはカメラ片手に歩き回っています。
そして当時の雰囲気やそこでの日常を思い出したり想像するのが楽しみとなっています。
これも親父の残してくれた写真のおかげです。
前回訪問させて頂きました。
その後もたまに拝見していたのですが、
新規の追加画像全てにまたもや驚愕です。
中央棟と北棟の間の公園・・・球状の遊具(プレイスカルプチャー)
がまだ建造中。ベースの色は黒っぽかったんだ。
屋上にあるブランコは後に公園に移設されます。
全体を見ることがもう叶わないと思っていた
エントランスの右壁面のモザイク装飾!が載っている!!
室内の追加画像もこんなに異なるパターンがあったとは!
新事実の発見や後の変化との比較もあり
見ているとどうしても饒舌になってしまいます。
貴重な画像を追加してくださり
ありがとうございます。
勝手なお願いですが、トイレや浴室も
もし写真が残っていたらいつか追加を
期待しております。
たまたま、OSアップグレードに伴って愛用の写真ソフトが使えなくなりますので、その移行準備として内容をチェックしていたところ、まだスキャンしていないプリントがいくつかあることに気がつきました。
最初は池下アパートのものとは分からなかったのですが、よくよく見てみるとどうやら一連のシリーズの一部のようです。そこで、前回の写真に加えて再配置してみました。
たぶんこれで最後かとは思うのですが、もしまた出てくれば追加します。