透明な女たちが行く。

男性風のペンネームを使い執筆した女性作家たちの物語り。

Gregorian – Running Up That Hill – Kate Bush


最近観たテレビ映画

最近観たテレビ映画に『トゥ・ウォーク・インビジブル(To Walk Invisible : The Bronte Sisters)』があります。

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『トゥ・ウォーク・インビジブル』は、2016年12月29日に BBC One で放送されたブロンテ三姉妹の伝記的物語。(ひょっとして1816年生まれのシャーロット・ブロンテ生誕200周年にちなんだ企画かも。)

ブロンテ三姉妹といえば、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』、そしてアン・ブロンテの『アグネス・グレイ』が有名。

『トゥ・ウォーク・インビジブル』では三人のブロンテ姉妹の人間関係や家計などの執筆環境に焦点を当て、『ジェーン・エア』に注目した出版社の青年社長にシャーロットとアンが売り込みをかけ、初めて女性が作者であることを明かして出版されるまでを描いています。


タイトル

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初版本表紙

ジェーン・エアの表紙の著作者名はカラー・ベル(Currer Bell)という男性名となっています。

シャーロット・ブロンテが後年になって、「自分たちの作風や考え方が、当時の社会が思い描く女性像とは相容れないと考えたため、世間の偏見から逃れようと男性的なペン・ネームを使った」と説明しているように、当時は女性作家に対する偏見があったため、彼女たちは男性のペンネームを使って小説と詩を出版しました。

どうやら『トゥ・ウォーク・インビジブル』というタイトルは、女性が女性に対する偏狭な固定概念に満ちた社会を生き抜くための知恵を示しているようです。


生活するためのリアルさ

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このブロンテ三姉妹については、20年ほど前にTVで放送された『若草物語』と勘違いして観たフランス映画『ブロンテ姉妹』(1979年)で、『嵐が丘』と『ジェーン・エア』が同じ姉妹の作品なのを初めて知って驚いた記憶があるのですが、この『トゥ・ウォーク・インビジブル』は同じ史実でも、もう少しリアルな実生活や社会環境に焦点をあてているように思います。

現在でも大変だと思うのですが、19世紀中ごろという社会環境のなかで生きている未婚の女達の今後どうやって暮らを立てていくのか切実に悩む姿には感じさせられました。

そして、この生活するためのリアルさが女性達のもつ別の側面を垣間見せてくれます。


ブロンテ・カントリー

『嵐が丘』や『ジェーン・エア』の映画によく登場するムーアの荒野。なんか落ち着くこの風景は大好きです。

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Jane Eyre 2011 ― Deleted Scenes

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『ジエィン・エア』日本で翻訳出版されたのは83年後。

『ジェーン・エア』の初出版は1847年。

1847年といえばなんと日本では江戸時代、黒船来航(幕末)のさらに 6年前になります。

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そして日本で翻訳出版されたのは80年後の昭和に入った1930年代。

青空文庫では1931年(昭和6年)に出版された十一谷 義三郎訳の『ジエィン・エア』の解説が公開されています。

ジエィン・エア 01 解説

「ジエィン・エア」は、十九世紀の半ば(一八四七)に出版せられて、英吉利の讀書界に、清新な亢奮と、溌剌とした興味を植ゑつけた名篇である。

兎に角、甲是乙非、囂々たる輿論の渦の中に、「ジエィン・エア」は、記録的な賣行を示した。

今日の小説手法(テクニック)から見れば、メロドラマ風の點が、多少鼻につくし、また當時にあつても、作者の處女作(――嚴密に云へば第二作)的な多少の生硬さが、眼についた。

しかし、それは、殆ど問題外として、この「ジエィン・エア」に盛(も)られたイプセン的な精神と熱意、及び、それを表現する嵐のやうな筆觸は、たしかに、尚、現代の讀者の胸に、何物かを與へると信じる。

ブロンティの作品は、この作のほかに三つ――中に就いて、「シヤァリ」は、手工業時代が機械工業時代に入らうとするその革命的雰圍氣を背景にしたスケールの大きな、野心的な長大篇で、部分部分に、素晴らしい描寫があるが、未完成の謗りは免れない。

「プロフェッサー」は處女作――平板である。「ヴィレット」は、一番圓熟してゐるが、「ジエィン・エア」ほどの清新味と熱意が失せてゐる。

つまり、あらゆる點から見て、この「ジエィン・エア」は、作者の代表作、古典(クラシック)の列に入る傑作である。

作者が、いかに常人と異つた生ひ立ちを持つたか――作者が、いかに、家政婦的日常煩雜事のあひ間に、「ジエィン・エア」を完成して、これを匿名で發表して、世を騷がせたか――作者が、いかに淋しい、烈しいラヴ・レターを書いたか――さうして、いかに晩い、短い、結婚生活を持つて、死んだか――人、女、藝術家としての作者の一生は、かの「クランフォード」の作者ギャスケル夫人の有名な「ブロンティ傳」に、いつさいを盡してゐる。

譯者は、先年、古い倫敦の月刊「ストランド誌(マガヂン)」のクリスマス號で、本篇の著者が、當時(六、七歳頃)ものせしと云ふ童話の遺稿を讀んだ。それは、著者の良人が、愛蘭土に隱棲してゐたその農家の天井に、煤にまみれて吊つてあつたのを、雜誌の記者が乞ひうけて公けにしたものであつた。稚拙ながら、著者の天分を窺ふに足る作品であつた。

校長ヘガー氏へ、祕めたる片戀――その切々たる情は、著者が、爾後數年間、春風秋雨、をり/\に、ハワースの牧師館から送つた手紙の紙面に溢れてゐる。その手紙は、皆、ヘガー夫人の手に握り潰されたと云ふ。むろん、一通の返書も、著者の手へは達しなかつたと云ふ。フロイド流に云へば、この片戀の悶々の情が、發して、この「ジエィン・エア」の熱烈な戀愛描寫となつたものであらう。

十一谷 義三郎「第二期 世界文學全集(5)」新潮社 1931年(昭和6年)


ところで「テレビ映画」って何?

テレビ映画とは劇場で上映されることを目的とした映画ではなくテレビでの放送が目的ですが、フィルム撮影することでテレビ放映の後に劇場公開を前提として製作されたもの。

アメリカではドラマとして製作されたテレビ映画として毎週同じ顔ぶれの内容で放映される「TVシリーズ」、毎週でなく一定の期間で放映される「TVミニシリーズ」、劇場公開を前提として制作されたのが「TVムービー」と区別されているが日本では現在「海外ドラマ」と呼ばれています。

どうやら劇場映画を単にテレビ放送することではないようです。

「テレビ映画」を英語版ウキペディアで調べると、

A television film (also known as a TV movie, TV film, television movie, telefilm, telemovie, made-for-television movie, made-for-television film, direct-to-TV movie, direct-to-TV film, movie of the week, feature-length drama, single drama and original movie) is a feature-length motion picture that is produced for, and originally distributed by or to, a television network, in contrast to theatrical films, which are made explicitly for initial showing in movie theaters.

Television
film_Wikipedia

これを日本語訳すると、

テレビ映画(あるいはテレビ映画、テレビ映画、テレビジョン映画、テレフィルム、テレムービー、メイド・フォー・テレビ映画、メイド・フォー・テレビ映画、ダイレクト・ツー・テレビ映画、ダイレクト・ツー・テレビ映画、映画長編ドラマ、長編ドラマ、原作映画)は劇場映画とは対照的に、テレビで放送した後に劇場公開を前提として制作された長編映画です。

と何だかよく分からない文章になってしまいます。

これは日本語訳では「television」「TV」を「テレビ」、「movie」「film」をどちらも「映画」としてしまうからです。日本語の語彙が不足なのはやはり輸入文化ということで仕方がないのでしょう。

では「movie」「film」の違いはどうなのでしょうか。


ムービーとフィルム

この疑問について、母語をイギリス英語やアメリカ英語とする人からは、“A movie and a film are both the same thing.”(ムービーもフィルムも同じ意味。)という回答が返ってくるようです。また「movie」は主にイギリスで使用され「film」は主にアメリカで使用されるといった説明もあります。

しかし日本人の自分でも、たとえば『踊る大捜査線 THE MOVIE』のタイトルを『踊る大捜査線 THE FILM』と言い換えた時に「movie」からは娯楽的「film」からは写実的な印象の違い感じるのですから、映画文化については歴史あるアメリカでは、同じといいながら本当のところは無意識にそのニュアンスの違いを感じ取っているような気もします。


パトリック・ブロンテ

結 核

左上腕に残るBCGワクチン、それもハンコ注射以前のはん痕。年代が体に刻まれています。

現在はツベルクリン反応検査を行わずに定期接種時の乳幼児に対してのみにBCGワクチンを接種するようですが、自分の頃は小学生の間ずっとツベルクリン反応検査を行い、陰性反応が出た者のみの接種でした。注射跡を叩いて赤い発疹を広げるのですがうまくいかず、在学中すべてBCGワクチンを接種するはめに。

このBCGワクチン接種、結核の予防が目的でした。

結核は医師は患者であると診断した場合直ちに保健所に届出しなければならない感染症です。

さて、ブロンテ一家の死因を調べると、

母 マリア・ブランウェル 1821年死去 38歳没(卵巣腫瘍)
長女 マリア1825年 死去 11歳没(結核)
次女 エリザベス1825年死去 10歳没(結核)
長男 パトリック・ブランウェル 1848年9月24日死去 31歳没
三女 エミリ・ジェーン 1848年2月19日死去 30歳没(結核)
四女 アン 1849年5月28日死去 29歳没(結核)
五女 シャーロット 1855年3月31日死去 38歳没(妊娠中毒)

父パトリックは妻と6人の子供全員に先立たれた後も6年にわたって生存し、1861年6月7日に84歳で死去。

結核が死因の場合が多いのです。

戦前の日本でも結核は亡国病とまで言われるほど猛威をふるっていて、日本人の平均寿命は40歳にも達していませんでした。

日本で最初に結核に関する統計調査が行われたのは明治32年(1899年)である。同年の日本の人口1万人あたりの死亡者数は15.29人であったが、大正時代にかけて徐々に増加し、おおむね20から23人の間を上下した。昭和9年に結核で死亡した者は13万1525人であり、患者数は131万5250人となっている。これは全人口の2%、当時の10世帯あたり1人の割合で患者がいる計算であった。

Wikipedia

それにしても、妻と6人の子供全員に先立たれた父パトリックの胸中はどのようだったのでしょうか。

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本日の一曲

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『トゥ・ウォーク・インビジブル 』の父親パトリック・ブロンテ役のジョナサン・プライスは、『未来世紀ブラジル』(1985年)主役のサム・ラウリーを演じています。

Pink Martini (with singer Storm Large) – Brasil

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