志賀団地と少年時代_周辺記7_稲置街道を北に

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東志賀小学校の東側、中央の焦げ茶の建物がかっての本屋さん。

「羊神社」に向かうため、今までとは逆に安永寺から稲置街道に沿って天道町まで北上します。

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やはり、1960年代当時の昭和な建物がちらほら。

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東志賀小学校東門の前を右に折れて、すぐに左に。再び北方向へ向かいます。

野壺(のつぼ)

東志賀小学校の東門の前には、小さな畑がありました。そこには野壷があり、それがなぜそこにあるのかよく分かりませんでした。春にはネギ坊主が咲き、いろいろな野菜が育っていく様をよく観察しました。

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この道路の左手に小さな畑がありました。その向こうには幼稚園。

銭 湯

当時の団地にはすでに内湯があり、銭湯にいく必要はなかったのですが、親が好きでよく通いました。

この銭湯の正面の小さな換気用煙突には「煙突除風器」があり、その羽はふだんは動いていなかったのですが、なぜか雪の降る日に限ってクルクル回るのです。そこからその羽が回る日には雪が降ると信じていました。

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銭湯は長喜会館として今もあります。

保育園

親が働いていたので、2才になった頃にはすでに保育園に通っていました。 結局 4年半ぐらい過ごしています。

通っていた保育園は、最初「綿神社」の近くにあったのが、稲置街道沿いに移転して、さらに志賀団地内へ移っています。今は一体どこにいったやら。

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最初「綿神社」の近くにあった頃の保育園の給食は「ロバのパン屋」が運んできました。ロバパンの曲がお昼の時間を知らせてくれるのでした。

「ロバのパン屋」

「パン売りのロバさん」のメロディーと共に、人々の記憶に残っているロバのパン屋は、1953年(昭和28年)に、浜松市と京都市とで移動販売を始めた。これが、四輪の馬車を牽くロバのパンとして日本各地で昭和30年代に見られた馬車である。

ただし、馬車を牽いていたのは、ロバではなく馬、それも、大多数は日本の在来種として知られる木曽馬である。木曽馬は小型の馬(ポニー)のため、使用したイメージソングも「ロバ」であり、子どもに受けもよかったために、敢えて馬に牽かせた馬車をロバのパンとして宣伝した。

「保育園と幼稚園」

小学生になり、幼稚園出身の友達に誘われて彼のいた幼稚園を訪ねたことがあります。

当時の保育園は園舎は古い木造の一間で、庭には花壇があるだけでした。季節ごとの行事はありましたが、基本的には一日遊んで、昼寝して帰るだけでした。

ところが幼稚園というところは、鉄筋園舎でいくつもの部屋があり、絵本もいっぱい。庭にはカラフルな遊具が備えてあって、正直なところ自分の保育園がみすぼらしく感じたのを覚えています。

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保育園(保育所)は、乳幼児を保護者から預かる「児童福祉施設」、幼稚園は、小学校入学前のお子さんの「教育施設」なので、その差はしかたがないのですが、そういえば幼稚園出身の連中はなんだか成績が良かったような気もします。

とはいえ、小学生の頃は毎日遊ぶのに夢中で、成績なんか気にしませんから、当時の通信簿に何が書いてあっても驚きません。

今になって思い出してみれば、志賀団地からはいつもひとりで通っていました。団地の子供は幼稚園に通っていたようです。卒園式の写真を見ても27人ですので小学校のひとクラスに5人ぐらいの割合となります。実は保育園のほうが少数派だったのですね。

「幼児雑誌」

たまに、小児科に置いてあった「キンダーブック」や「よいこのくに」などの雑誌を目にするときもありましたが、自分とは別世界にいる子供の絵本のような気がしました。

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ここから先は天道町まで記憶がありません。ということでひたすら北を目指します。

本日の一曲

パン売りのロバさん

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「志賀団地と少年時代_周辺記7_稲置街道を北に」への6件のフィードバック

  1. 懐かしいです。
    昭和31年から42年まで志賀団地に住んでいました。
    志賀幼稚園から東志賀小学校、妹は保育園に通っていました。
    稲野先生かな?お世話になりました、妹。
    お友達はスターハウスに住んでいました。
    ああ懐かしい~。
    私はSUDAREより2つくらい上でしょうか。
    今は大阪在住です。

    1. ティナモカハニーママさん

      平和ないい時代でしたね。

      私も同じ頃に志賀団地を後にしています。

      当時の楽しい思い出は、頭の中に絵本のように何十ページも残っています。

      最近それが薄れてきましたので、一念発起して現地に行ってきました。

      ほんの少しですがその面影を発見してうれしく思い、忘れないようにこのブログに記録しておきました。

      知る人々が少なくなったこの記憶は大切にしたいと思います。

  2. すみません。
    後日読み返していたら、SUDAREさんの事を呼び捨てにしておりました。
    大文字にするのに気を取られて・・・「さん」が抜けておりました。
    偉そうなおばちゃんと思われたことでしょうね。
    本当に失礼いたしました。

    2年ほど前からあの当時の幼馴染とのお付き合いが再開いたしました。
    スターハウスの住人だったお友達です。
    今年こそは彼女と志賀団地に行ってみたいです。

  3. たびたびのコメントすみません。
    SUDAREさん、妹の保育園時代のお友達かもしれません。
    びっくりポン!です。
    「こうよう君」という名は私の記憶にありました。
    妹に聞いてみると、「赤ずきんちゃん」の劇を一緒にして写真もあるとのことです。歳は妹より一寸上だったとか・・・。
    とにかく落ち着きのない妹で、保育園では叱られてばかりだったそうです。
    名前は「なな」です。
    間違っていたら、ごめんなさいね。

    しかし、懐かしくて何度も見返してしまう記事です。
    ありがとうございます。

    1. ティナモカハニーママさん

      「こうよう君とななちゃん」

      驚きました。確かにそうです。

      志賀団地と少年時代_周辺記2_小さな杜の生き物語」になにげなく写真をあげておきました。

      大学時代に二人の同級生の女の子に会って以来です。不思議ですね。還暦を過ぎて時が再び戻ったのでしょうか。

      ひょっとして、スターハウスの住人だったお友達の名前は「園子」さんかもしれませんね。

  4. そうです、そうです、写真の女の子は確かに妹です。
    当時「こうよう君」の名はよく聞きました。
    仲良だったのですね。
    残念ながら「園子さん」は9号館にいましたが・・・違うかな?
    私のお友達は「貝殻公園」の北側の方のスターハウスの「育美ちゃん」です。

    平和な子供時代が蘇ってきますね。
    ああ嬉しい!!
    妹は今年還暦です。 (*^_^*)

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