志賀団地と少年時代_周辺記6_稲置街道を南に

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今回はコンビニがある東志賀小学校の東南角から稲置街道に沿ってさらに南下します。

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稲置街道

志賀団地の東南角に東志賀小学校があります。その東門から鍵形に曲がり南北に向かう道が昔からある「稲置街道」です。

はるか昔の人も歩いていた由緒正しい道とは知らずによく使っていました。当時でも行き交う人が割と多い道でした。

「稲置街道」

名古屋の東海道と中山道を結ぶ脇街道には、上街道(うわかいどう)の木曽街道(現国道41号に相当)、下街道(したかいどう)の善光寺道(現国道19号に相当)、美濃路(現国道22号に相当)があります。

上街道の木曽街道は、名古屋城下の東片端から中山道の伏見宿までを結んでいました。楽田追分(犬山市)までは「稲置街道」とも呼ばれます。

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途中、1960年代当時の昭和な建物もまだちらほら。

その先は市営志賀住宅や公営市場もあってにぎやかなところ。市場の向かいの八百屋の息子が保育園時代からずっと一緒の友達で、毎日のように通って店先や家の中で遊んでいました。

帰り道に市営志賀住宅内にある駄菓子屋や古本屋に寄り道。団地よりもこちらの店の方が品揃えがよかった。

安栄寺

さらに南に進むと五叉路(ごさろ)を越えた先に安永寺があります。

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安栄寺は大須の萬松寺の末寺。名古屋城の鬼門除けとして、城内から大聖不動明王が奉遷されています。境内に、室町時代の様式をもつ市指定文化財六地蔵石仏があります。

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「大須萬松寺」

天文9年(1540年)、織田信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。信長が信秀の葬儀の際に位牌に抹香を投げつけた寺。名古屋城を築く際に大須に移築した。

入り口にはかの「キヨス本町 柴山藤蔵」の石碑。

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安栄寺入口の石灯籠に彫り込まれた「キヨス本町 柴山藤蔵」の文字

「キヨス本町 柴山藤蔵」

柴山藤蔵という人は、江戸末期から明治初期にかけての清洲の米商人で全国の寺社に多くの石碑を寄贈しています。このような地元の寄進家としては他に、守口漬の杉屋佐助、 米穀仲買人の伊藤萬蔵などが有名どころです。近くの寺社でも彼らの石造物が見つかるかもしれません。

調べてみると、この安栄寺の石碑が寄贈された元治(げんじ)という元号は一年ほどの期間しかなく、元治元年には有名な京都の「池田屋事件」がおきています。

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シンプルですが、なんとも言いようのない美しいお寺です。

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「安栄寺六地蔵」愛知県下で最も古い紀年銘のある石仏(室町時代末期)

奥には墓地があるのですが、何となく懐かしい気がしました。

お墓に骨が入っているのか調べたくて墓石を動かしたところ、なぜか翌日の校長先生による校内放送で怒られた、あの舞台だったような気がしないでもありません。

児子宮八幡社

安栄寺の隣にある児子宮八幡社は「稚児宮(ちごのみや)神社」と呼んでいました。

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名前の割に何もなくて、地元の子供たちの遊び場でした。部外者の自分は遊んだことはありませんが、石灯籠に「あぶない のるな」の大きな警告板が取り付けられているところをみると、石灯籠と格闘した子供たちが大勢いたようです。

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竹細工

稚児宮神社の近くにはよく訪れました。

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あるとき、道端の竹やぶに入って探検していると農家の庭先に出ました。そして縁側に座ったお爺さんが何やら作業をしています。どうも竹細工をしているようです。

お爺さんは黙々と作業をしています。自分はその手先をじっと見つめています。お互い何も話さず静かな時間が流れていきました。

帰り際にお爺さんに「この竹もらってもいい?」そして「ああ」という返事。たったこれだけ。また自分は再び竹やぶに姿を消しました。

それ以降何度も尋ねて竹をもらい、団地のベランダで紙鉄砲やら弓矢やらをつくっていました。

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江戸時代の人々も歩いた道

ここまでの「綿神社」から「児宮神社」は江戸時代からの名所。
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江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌の『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』によれば、中央左にある「綿八幡社」の裏手から、奥の田を横切って「児宮」を裏手から訪れたことになります。

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1955年の航空写真でも、江戸時代からの神社を結ぶ道は曲がり具合も変わっていないようです。たぶん現在も同じでしょう。

200年前の人々と同じ体験をできるのは不思議な感じ。当時の彼らの生活ぶりに想いを馳せてしまいます。

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