志賀団地と少年時代_周辺記2_小さな杜の生き物語

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当時、大きな樹木のある森は志賀団地周辺にはありませんでした。そんななか「綿神社」は、ささやかな森の雰囲気を味合わせてくれたところでもありました。

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1955年当時、緑のあるところは点在する神社か公園しかありませんでした。国道41号線も途中で途切れていて、当然新川中橋もまだなく、西寄りの新川洗堰(しんかわあらいぜき)に木造の橋が架かっていたのです。

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現在の東志賀公園

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1960年当時の東志賀公園

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こうよう君とななちゃん(ふたりとももう60を過ぎてしまいました。)

今では立派な木が茂っているアーバンラフレ志賀内の東志賀公園も当時はただの広い空き地でした。

当地には戦前より神戸製鋼所名古屋製作所が所在していたが、空襲により焼失したため、名古屋市が用地を確保し、大規模住宅の建築を企画していた。設計を東京の設計事務所に発注していたものの、日本住宅公団名古屋支社の初仕事としての譲り受けたいとの求めがあったため、小学校の建設予定地(名古屋市立東志賀小学校)を除いた用地を譲渡したものという。

Wikipedia

小さな杜(もり)の生き物語

この綿神社の境内で出会った昆虫や植物には開発の進んだ付近ではなかなか見られない種類がいました。

玉虫

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こいつを捕まえたときはうれしかった。

「玉虫厨子」

そのとき、すでに法隆寺の玉虫厨子のことは知っていて、こんな綺麗な羽でできている厨子はどんなにか美しいのかと想像してしまいしました。

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玉虫厨子の平成版

2008年、国宝・玉虫厨子を模した2基が完成しました。岐阜県高山市の造園業中田金太さんが1億円超の私費を投じて2003年秋から計画。大工や蒔絵師ら延べ4000人以上がかかわり、2万匹以上の玉虫の羽を活用、3万6000枚以上の羽を使って豪華に仕立てた。

「厨子」といえば1961年公開の東映動画の劇場アニメ映画『安寿と厨子王丸』が思い出されます。


安寿と厨子王丸 予告篇

「厨子と仏壇の不思議な関係」

ところで厨子と仏壇の違いを考えてみると、これがよく分からないのです。

本来の厨子は、中世によくみられた持仏堂や仏間で仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種。現在の仏壇はその持仏堂や仏間のミニチュア版を厨子に収めたもの。

最近では、厨子は本来の用途であるお位牌を入れる位牌壇としても使われているそうですが、これを都市型のミニ仏壇と称しているのでまたややこしい。矜羯羅(こんがら)童子の登場ですね。

部分が全体を内包。まさに禅問答のよう。

オニヤンマ

さて次はトンボの王様、オニヤンマ。これを初めて捕ったのも「綿神社」。
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初めて見かけたときは感動しました。いつかはオニヤンマをと願っていた少年には最高の日。そのときのことは今でも覚えています。

10センチ近くの大きなトンボで、苦心の末、初めて手にしたときにはトンボには慣れているはずでしたが、次第に「怖い」という感覚に襲われて、結局その怖さ故に放してしまったのですが、手にトンボの王様を持ったという感動がいつまでも残っていました。

「トンボ捕るには網など要らぬ」

トンボといえば、網を使わずに捕っていました。

停まっているトンボに対して左手の人さし指を使って目の前でぐるぐると輪を描いて気を引いている間に、後ろからそっと右手の人さし指と中指をはさみの形にして羽を挟むのです。たぶん今でもできると思います。

オニヤンマの場合は、たまたまセミ捕りの道具で捕ったのですが、その道具とは、安い釣りざおの先にハエ取り紙を挟んでねばねばをからめつけたもの。

この境内には背の高い樹木が多く、ふつうの捕虫網では役に立たなかったからです。

そして捕った後は、羽の舐めてねばねばをとるのです。

サルノコシカケ

虫以外にも、「綿神社」境内で初めて見たものがあります。それはサルノコシカケ。

山奥にしか生えていないと思っていたのですが、ある日シイの木に半月状に広がっているのを発見してしまったのです。さわってみると結構固くてへんなキノコでした。

宮司のお内儀の話 その2

たまたま境内でお会いした宮司のお内儀の話によれば、

「玉虫やオニヤンマもいたけれど、へびやカブトムシもいましたよ。」

驚きです。当時すでにカブトムシはデパートにいって買う昆虫でしたから。さらに蛇までもいたとは。

でも、コンクリート造りの団地でさえのベランダに置いてあった木製のリンゴ箱をねらって、排水溝からネズミが出没して齧っていましたので、小さくてもりっぱに森だった境内には蛇もいたかもしれません。

自分の記憶にある以前の境内よりも樹木がさっぱりとしているという感想に対して、

「本拝殿が完成(1970年)するまでは右手にある秋葉社/浅間社が現在の本拝殿のある場所にあったのよ。」

自分がこの地を去ったのが1965年でしたので社殿の配置は違っていたのでした。そして周辺の宅地化で落ち葉の掃除や落ち葉焚き、虫などへの苦情が増えたので境内の樹木をさらに減らすそうです。

世の中変わったものです。

霊源寺

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そのお内儀に勧められて向かったのが「綿神社」南面参道右側に並んである、曹渓山霊源寺。

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今風な寺院とそっけなく置かれた年季の入った灯籠と百度石の対比がなんともいえない雰囲気。これだけさっぱりとした景色もなかなかいいもの。

「曹渓山霊源寺」

屋根の上に「曹渓山」本堂の額に「霊源寺」の文字。

曹渓山霊源寺はこの寺を開いた曹渓居士とその妻の霊源法尼の名が由来。

夫婦仲良くこのお寺を盛立てたなんて素敵な話。

曹洞宗の寺で250年以上の歴史があるのですが、1945年5月14日の名古屋城が焼失した名古屋大空襲で北区も半分が炎上。山門の碑以外すべて消失してしまったそうです。

その後のことも聴かされたのですが、人にもお寺にもいろいろ人生模様があるようです。

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「百度石」

百度参りは「百度石」を基点として本殿までの参拝を百度繰り返すのですが、この位置の場合、どのように参ればいいのかしばらく考えてしまいました。多分本殿への礼拝した後でお百度紐でも置いたのでしょうか。

後で訪れる綿神社の別社である「児子八幡社」は、この霊源寺の門前に「児御前の社」として鎮座していたそうです。

本日の一曲

綿の杜をとおりぬける風のにおいだけは昔のままでした。


千と千尋の神隠し – あの夏へ

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「志賀団地と少年時代_周辺記2_小さな杜の生き物語」への3件のフィードバック

  1. 59年生まれです。9号棟に中学卒業まで住んでました。綿神社のタマムシ、僕も見つけて感動した記憶があります。なんとなく、ななちゃんにも思い出があるんだけど・・・。懐かしいです。ありがとうございます。

    1. 団地での生活風景。

      アニメでは80年代がよく描かれるのですが、住宅公団初期の日常生活の記憶はまた違った感触の懐かしさに溢れています。

      そろそろ忘れかけた始めた記憶をなんとか書き留めようと思ったのですが、残念なことに当時の資料はあまり見つかりません。50年ぶりで現地へ行って思い出したりしたことを元にして、手に入る資料でなんとか再構成してみました。

      とにかく楽しんでいただけて幸いです。

      1. ありがとうございました。団地の人たちの消息は殆どありません。こうよう君とななちゃん、いまもご存知なんですか。

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