君の瞳に恋してる。ディスコ自分史

「イーストウッド監督映画としては壊滅的な不発ぶり。」と評される映画『ジャージー・ボーイズ』。


映画『ジャージー・ボーイズ』予告編(ロングバージョン)【HD】

9月末に公開された日本での興行成績もあまり振るわないようです。
個人的にはクリント・イーストウッド氏が監督や製作して、同時に自身が出演している作品『人生の特等席』や『グラン・トリノ』のほうがやっぱり味があると思います。

昔からザ・フォー・シーズンズの音楽が好きだったというイーストウッド監督が興味を持ったのは、「最高の環境で育ったとは決して言えない、半分不良みたいな若者たちがどうやって成功したのか」ということ。さらに、「この映画を見終わった人々は、きっと歌を口ずさみながら映画館から出てくる。それだけでなく、彼らの歌がどこから生まれたかという背景を楽しみながら知ってほしいし、そのレガシーが今でもしっかり伝わってくる4人の若者のことを覚えていてほしいね」と作品に込めた思いを明かした。

映画.com

本作では、イーストウッド氏の息子のカイル・イーストウッドが劇中の音楽を担当しているのですが、『ミスティック・リバー』『グラン・トリノ』などの実績もあり、宮崎駿監督の息子宮崎吾朗よりは才能発揮がうまくいっている気がします。


sherry(1962年)


Can’t Take My Eyes off You – Frankie Valli and The 4 Seasons(1967年)

カバーヒットしたディスコ曲

Can’t Take My Eyes off You


Boys Town Gang – Can’t take my eyes off you(1982年)

『 ジャージー・ボーイズ』はフォー・シーズンズの経歴を基にしたトニー賞受賞ミュージカルの映画化なのですが、年代の違いでしょうか、フォー・シーズンズの『君の瞳に恋してる(Can’t Take My Eyes off You_ 君から目を逸らせられない)』は、どうしても原曲よりボーイズ・タウン・ギャング(Boys Town Gang)が1982年にディスコ調にアレンジして大ヒットさせたものを思い出してしまいます。

MacArthur Park

ディスコ曲でカバーヒットした有名なものにもうひとつ『マッカーサー・パーク(MacArthur Park)』があります。


ドナ・サマー マッカーサー・パーク Donna Summer MacArthur Park(1978年)

実はドナ・サマーには二度びっくりさせられています。

ひとつは彼女を始めて知った1975年の『愛の誘惑(Love to Love You Baby)』という曲。

17分近く、官能的な喘ぎ声を散りばめたこの曲はイギリスのBBCで放送禁止になるほどインパクトが強くて、二十歳の青年には少々刺激が強い曲だったのですが、このような曲を作り出せるものなのかとそのアイデアの感性に感激したことを覚えています。


Donna Summer Love To Love You Baby original long version (Disco 70s)

1970年代には「ディスコの女王」(Queen of Disco)と呼ばれ、一世を風靡したのですが、その頃の曲はあまり記憶にありません。

そして、1987年に発表された『マッカーサー・パーク』。

今では『マッカーサー・パーク』のドナ・サマーバージョンとして有名ですが、リチャード・ハリスの原曲バージョンは7分21秒という長さ。当初こんな難しい曲をダンス曲としてとしてカバーしたのにはびっくりさせられました。

たぶんこの曲を最初に聴いたのは、1968年のリチャード・ハリスのオリジナルではなく、グレン・キャンベルだったと思います。


Glen Campbell – Jimmy Webb 6 Song Medley

『マッカーサー・パーク』はドナ・サマー以前にもアレサ・フランクリン、サミー・ディビス・ジュニア、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ダイアナ・ロスなど様々な歌手がカバーしていますので聴き比べると面白い曲でもあります。

Classic Disco

wpid-20141006_01-2014-09-28-12-03.jpg

1978年の本格化

1977年(昭和52年)から始まる第二次のディスコブーム。1978年(昭和53年)のジョン・トラボルタ主演の映画 「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されて大ヒットしたことにより、ブームが本格化しました。

同時に、ちょうど60年代に日替わりで様々な曲がヒットチャートを賑わせたように、現在「Classic Disco」と呼ばれているディスコの定番となる曲が数多く生まれた時代でもありました。


70s classic Disco Mix

NHK-FMの『クロスオーバー11』(クロスオーバーイレブン)も、1978年にレギュラー化して本格的に放送開始しました。こちらのほうは、ディスコブームと異なり、22年以上にわたり放送される長寿番組となっています。


クロスオーバーイレブン OP

クロスオーバーイレブン END

wpid-20141006_02-2014-09-28-12-03.jpg

1976年(昭和51年)『ブロックくずし』というアーケードゲームが喫茶店に登場、1978年(昭和53年)の『スペースインベーダー』の大ブーム。以後『ギャラクシアン』『パックマン』と続きます。

つまり、昼の休憩時間は喫茶店で100円玉を積んでのアーケードゲーム、夜は着替えてディスコフィーバー三昧、そしてアダルトコンテンポラリーに包まれて眠る青年時代。

もちろん仕事もそれなりにこなしていたとは思いますが。

サーファーディスコ時代

wpid-20141006_03-2014-09-28-12-03.jpg

1981年-1984年(サーファーディスコブーム)

この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」が人気店となる。六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役は女子大生であった。

ディスコ _Wikipedia

新しいカルチャーに飛びついた「ポスト団塊世代」

実はバブルからさかのぼること10年余り前から、すでに「消費天国」への種は芽吹き始めていた。

75年にベトナム戦争が終結。「団塊の世代」による学生運動が下火になり、次の世代である「ポスト団塊世代」(52~57年生まれ)が大学生になると、前の世代の熱さとは対照的に、政治論議には関心が薄く「しらけ世代」「ノンポリ」と称された。一方で、高度経済成長期に生まれた彼らは「モノこそが豊かさと幸せの象徴」「消費は楽しいもの」として育ってきたため、新しい遊びやファッションにはいち早く飛びついた。

「ポスト団塊世代」の荒井由実(当時)が78年にリリースしたアルバム「流線型’80」には、「ロッヂで待つクリスマス」「真冬のサーファー」と、当時はまだ最先端だったおしゃれな遊びや恋愛シーンを描いた曲が収録されている。ユーミンはまさにこの世代の先頭を走り、新しいライフスタイルをけん引したフロントランナーだった。

78年からは若者文化に大きな影響を与えたトレンドが訪れた。米国映画「サタデー・ナイト・フィーバー」でディスコブームが起き、同じく「ビッグ・ウェンズデー」でサーファーが急増した。テニスではビョルン・ボルグやジョン・マッケンローが活躍し、テニスラケットを抱える若者が街にあふれたのもこの頃だ。

79年にはソニーのウォークマンが登場、音楽を外出先で楽しむという画期的なスタイルが生まれた。高価な道具が必要なスポーツや魅力的な新商品が数多く紹介され、バブル時代の「消費の下地」ができた時期ともいえるだろう。

そして80年代半ば、「ポスト団塊世代」を見て育った、下の世代が大学生から社会人になったまさにそのとき、バブル景気が到来。彼らはいわゆる「バブル世代」といわれ、「新人類(61~70年生まれ)」とも呼ばれる世代だ。「ポスト団塊世代」が取り入れた新しいライフスタイルがこの世代に一気に普及した。

「バブル」という時代_ウェブ「広告月報」

20160225-2014-09-28-12-03.gif

サーファーディスコブームの頃、「イルミネーション・クラブ」に通っていた自分はいつも「DOMON」の1920年代風のダブルのストライプスーツを着込み、入って右手の大きなアレカヤシの前に置かれたラタンピーコックの大きな椅子が定席でした。

1978年-1981年 サーファーディスコ曲リスト

wpid-20141006_04-2014-09-28-12-03.png

本日の一曲。

ここから 70年代後半の Bee Gees が復活しました。


Bee Gees – Fanny (Be Tender With My Love)

過去ブログから

愛しのイルミネーション・クラブ
MEMENTO MORI
公開日:2007/02/08 23:38

名古屋の栄に国内最大級のディスコ・クラブ Platinum NAGOYA(ドレスコード)がオープン(2006年 6月)したそうです。

wpid-20141006_05-2014-09-28-12-03.jpg
platinum

当店は男性23歳未満、女性20歳未満のお客様及び、男性のジーンズにTシャツ及びショート パンツ、サンダル等の軽装でのご入場をお断りしております。男性の方はジャケットの着用を お願いします。(身分証のご提示をお願いする場合もございます。)

行ってみようかな。

ディスコブーム

90年代前半(ジュリアナ東京ブーム)

このころは、「岡本夏生」ラインのファッション・ブティック「cassolo」を数店、展開していましたが、結局採算に届かず、涙の撤収となりました…。

80年代後半(第一次ユーロブーム)

マハラジャという店名の命名者は、スカルノ元インドネシア大統領夫人のデヴィ・スカルノだそうですが、この頃「トゥーリア」でバリライトという照明の落下事故の照明を製作したデザイナーと付き合っていました。彼は名古屋キング&クイーンも手がけていました。

話は遡って、70年代後半のディスコの話。

地方の話題で申し訳ないのですが、初めてディスコに行ったのは名古屋駅前のレジャック「ステージセブン」です。

「ディスコ」とはどんなところなんだろ、と割引券片手にオープンまも ないこの店に行ったのですが、お客が数人しかいません。何をしていいのか分からないのでとりあえずダンスフロアに行ってみました。そこには女性客がたった一人だけ小さく体を揺すり ながら踊っていました。大きなダンスフロアにたったひとりだけ…おかしいなアメリカでは ディスコは大ブームで満員なのになどと思っていたところ、Stevie Wonder の「迷信」が流れ始めると突然、彼女が実に官能的に踊り出したのです。

その「美しさ」に感動してしまい、しばらく身動きが取れなかったのを覚えています。これが、自分の青春時代のディスコ遍歴の始まりでした。それからというものの週に3日は通いました。友達を自分の部屋に呼んで、ステップの練習をしてそれから繰り出したのです。帰りには深夜喫茶で「インベーダーゲーム」 に朝まで遊んでそのまま出勤という生活でした。

そこに「サタディナイトフィバー」ブームの到来です。

だんだん盛況になる「ステージセブン」と集団のステップに嫌気が差して、自分に合った店探しを始めました。そんなとき「クロスオーバーイレブン」と「イルミネーション・クラブ」が同時に自分の前に忽然と現れたのです。

愛しのイルミネーション・クラブ

クロスオーバーイレブン

ちょうどこの頃、NHK-FMで「クロスオーバーイレブン」が始まりました。「もうすぐ、 時計の針は12時を回ろうとしています。今日と明日が出会う時̶クロスオーバーイレブン」このナレーションで始まるこの番組はとにかくアダルトコンテンポラリーの選曲センスが最高でした。

イルミネーション・クラブ

そしてどのような経緯なのかは記憶が定かではありませんが、見つけたのが「イルミネーション・クラブ」でした。

繁華街から道一本離れたオフィス街のビルの地下にぽつんとあったのです。(かなりマイナーなディスコクラブだったのでしょうね、ネット検索してもほとんどヒットしません。)この「イルミネーション・クラブ」も巷のディスコとは違い、アダルトコンテンポラリー系の曲が多くかかるちょっと変わった店でした。

ここで初めて聞いた The Brothers Jonson の 『Right On Time』が自分のダンスミュージックテーマとなり、この曲が流れ始めると誰にも負けないオリジナルステップを披露したものです。(この曲で踊るのは自分一人で、たいてい次の Earth, Wind & Fire の『Fantasy』でおおいに盛り上がりました。)

自分はいつも「DOMON」の1920年代風のダブルのストライプスーツを着込み、入って右手の大きなアレカヤシの前に置かれたラタンピーコックの大きな椅子が定席でした。(当時の「DOMON」に替わって、 今は紳士服のAOKIの「ジャンレノ」がお気に入りブランドです。)

この「イルミネーション・クラブ」での最高の思い出をひとつ。

ある冬の日、いつものように店を後にして階段を上り、扉を開けたとき、目に飛び込んできた
のが一面の雪景色です。

たった今までの喧騒から瞬間に静寂の風景に包み込まれたとき、なんともいえないさわやかな 気持ちがしました。不思議なことに今あるその時の記憶は、扉を開けて空を見上げている自分 ではなくて、それを道路の向こう側で見ているもうひとりの自分の風景なのです。 もう二度と そんな風景に出合うこともないでしょう。

この記憶は将来、絵で描きたい記憶のひとつです。
(数年前その場所をたまたま通りかかったので入ってみたら、なんと中華料理屋になっていました。)

広告

「君の瞳に恋してる。ディスコ自分史」への5件のフィードバック

  1. ステージ7。鏡に向かって全員が踊る姿が物悲しくて行けなくなりました。イルミネーションクラブはDJが素晴らしかったと思います。スラム・サム・21・BP・オセロと、半分仕事半分遊びでフラフラしてました。 あまりにも懐かしくて、コメント書いちゃいました。

    1. そうそう「ディスコ21」、ありました。懐かしい名前。

      サーファーディスコは残念ながら名古屋ではマイナーな存在でしたが、ファッショナブルで好きでした。

      ところで今年2月にアース・ウィンド&ファイアーのモーリス・ ホワイトさんが死去しましたね。『Fantasy』もいい曲でした。

  2. 遡れば、ビッグベン・フリーダム・ロヂック新栄‥ 妖しげな絨毯バーもありました。DJもスタッフも、好きな事を追求しているカッコイイ人がたくさんいました。お客も彼らに憧れて通っていたと思います。当方、40年以上名古屋のディスコの衰退を見守り続けております。いえ。まだ踊ってもいます。

    1. いろいろご存知ですね。自分は「ステージ7」が初めて行ったディスコです。

      オープンしたばかりの「ステージ7」に初めて行った日は、自分と友人のふたりとダンスホールに女性がひとり。

      スティーヴィー・ワンダーの「Superstition」の曲に合わせてその女性の踊る姿を見て、ディスコというものに魅了されてしまいました。

      その後色々な店に行ってみたのですが、次第に自分の年齢に合った店の雰囲気、そして選曲のセンスと店員の応対で店を選んでいたら「イルミネーション・クラブ」に落ち着いたわけです。

      ところで、今日2月14日、WOWOWライブで「CHIC featuring NILE RODGERS I’ll Be There Tour in JAPAN 2015」放送が放送されました。

      ナイル・ロジャースも63歳ですか。

      今聞いても「Le Freak」「Good Times」やっぱりかっこいい。

      1. ナイル・ロジャース! ダフトパンクとファレルとのコラボで久しぶりに感動しました。相変わらずのイイ音ですね!
        そして、宇宙に行っちゃってからのEW&Fはあまり聴かなくなってしまったけれど、モーリスの死は何だか寂しいです。ボウイの死は、偶然にも前日にPVを観て感じたままでした。
        夢中にさせてくれた色々なものが、ひとつふたつと消えていきます。 あ。違った! 私たちに遺してくれた文化は大きいですね!

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中