志賀団地と少年時代_団地設計

昔から老いた人を見て、その人の少年時代に想いを馳せることがありました。誰もがかならず持っている「少年時代」あるいは「少女時代」の記憶。

時の流れはそれを「懐かしさ」という甘美な風景にしてしまいます。 …

2013年(平成25年)名古屋市北図書館にて

かって「少年時代」を過ごしたスターハウス跡は現在駐車場になっています。

戦後復興期の少年時代

昭和ノスタルジーとして代表的な『三丁目の夕日』の東京の下町の風景にはあまり懐かしさを感じません。作者の年齢からおそらくその光景は、悲劇・貧困・飢餓といった苦しさが満ちていた戦後復興期に少年時代を過ごした団塊世代のものだからでしょう。

団塊世代は戦後の復興期に少年時代を送り、高度経済成長時代に青年期を過ごし、教育的には1947年に設立された日本教職員組合の影響を濃厚に受けた世代です。そうした時代に流行した思想や教育をそのまま正義と信じて日本の頂点に立ったのが菅直人元首相。

問題は、当時からインテリと称されたオピニオンリーダー達のステイタスが必要以上に継続され過ぎたことです。すでに昭和ノスタルジーと語られるべきことをまだ現実であるかように主張し続けたことです。それも民主党政権の崩壊と共に消え去り、体制反体制の有象無象を含めた本当の意味での「戦後レジーム」がやっと終わりを告げようしています。

ただ、当時の大学進学率は15%程度、大半は高卒・中卒としてすでに実社会で働いていた方々です。それぞれの人生を生き抜き、少年時代を振り返って懐かしむことも多いでしょう。そして人口が多い分、経済価値が高くメディアでその記憶を昭和ノスタルジーとされるのは致し方ありません。

もう一つの昭和ノスタルジー

しかし、それとは別に高度経済成長時代に「少年時代」を過ごした世代の昭和ノスタルジーもあります。

残念ながら若い世代には団塊世代と同一視されてしまいますが、安保闘争や太陽族とは無関係で、彼らが無分別に壊した残骸を、空襲跡のように静かに眺めて青春時代を送った昭和世代もいるです。

それは「しらけ世代」とか「谷間世代」などネガティブにネーミングされる昭和30年後半以降に生まれた世代です。現在、この世代がやっと政治や文化を継承しつつあります。

次世代へのバトンタッチの時間はごくわずかなのですが、戦後レジームの最後の大掃除をして、この醜く変形した日本を元の自然な姿になったことを見届けて身を隠すことでしょう。それがこの世代に課せられた運命なのかもしれません。

団地と少年時代

1964年(昭和39年)頃の名古屋市北区の志賀団地にて

さらに自分が過ごした少年時代に特徴的なのは、高度経済成長時代に加え、「団地族」として生まれ育った第一世代だということ。
 

日本住宅公団は、かつて戦前に存在した住宅営団(旧同潤会)を参考に、1955年に設立され1981年に解散しました。

昭和30 – 40年代には都市部で働く地方出身の中流サラリーマンに良質な住宅を大量に供給するために主として都市近郊に公団が土地開発し住宅建築を行った。全部で数百世帯から千世帯を越える当時としては大規模開発で後の民間の「デベロッパー」の先駆けである。

建物の特徴として階段室型の中層5階建ての鉄筋コンクリート造の集合住宅が取り囲むような構造となっているものが多い。規模の大きい団地では中心部に商店、銀行、郵便局など生活に必要な施設を置き団地内で生活の要が足せるようになっている。

当初は賃貸タイプのみで中流のサラリーマンの月収入の40パーセント前後の家賃が設定されており、民間アパートと比べて決して安いとは言えないもののモダンな生活を夢見る夫婦の申し込みが殺到し抽選にあたるのはなかなか困難であった。
Wikipedia

初期の公団住宅の入居には「最低」所得制限がありました。ある程度以上の所得がないと応募さえできなく、けっこう敷居が高かったのです。

結局、会社役員、大学教授、医師、弁護士、画家など比較的社会的地位の高い人々が持ち家に移るまでの仮の住まいとすることが多く、そのような環境のコミュニティには地域の風習にとらわれないオープンな雰囲気がありました。名古屋生まれながら「名古屋弁」も知らなかったのです。

ただ、このような環境では成績が悪く、好奇心旺盛な子供には少々つらいものがありました。そんな子供でも周りの大人の女性たちは優しく扱ってくれたのを今でも忘れることはできません。

そこでの隣人関係は『三丁目の夕日』よりもう少しさっぱりとしていましたが、現在ほど無関心ではなく、ほどほどの距離感の近所付き合いでした。

団地設計と少年時代

最近は公団住宅の古い建物を愛好する人たちのことを指して「団地萌え」「団地マニア」という言葉もあるようです。


1957年(昭和32年)頃の名古屋市北区の志賀団地にて

もちろん、自分も住んでいた「スターハウス」という住棟スタイル自体も好きなのですが、建物そのものというよりは団地設計自体が好きなのです。

とくに最初に住んだ志賀団地の配置設計は変化に富んでいて、いまなお印象に残る志賀団地の風景はたくさんます。しかし似たものはありません。幼い頃の活動圏はほぼ団地内でしたが、自分がいまどこにいるのかはすぐわかりました。それと何故か大体の時刻も。

問題作の志賀団地

「日本住宅公団黎明期における団地設計活動に関する研究」にはこう書かれています。
 

「団地設計とは土地利用計画、道路設計から住棟の配置計画までいたる一連の設計活動を指すものである。それに対し、配置計画は住棟を敷地内にプランニングしていく作業を指し、必ずしも道路設計と一体化していないことが多い。」

「住宅団地の配置計画は、住宅、割地、街区、道路、給排水、給電等の設備、幼児遊場の共同施設等を合理的かつ良好な環境を作り出すように総合的に配置するのであって、全くデザインである」

「公団が出来てからも千里山、志賀、桐ヶ丘団地等と相次いで問題作を生み出した久米事務所の力量と団地設計への研鑽は高く評価されなければならない。」

「標準設計に関しては、昭和26年東大吉武教授による51-C型DKプランが公営住宅の標準設計に採用された。公団はこのDKプランを採用し、特殊設計の志賀型、野毛山型、を含め、34 種の標準設計を完成させた。この中にはポイントハウス(スター型)が5種、テラスハウスタイプが8種ある。」

「団地設計技術は極めて試行的な部分があったことが、スターハウスやテラスハウス、NSペアの実践過程から分かる。また配置設計が求める住棟設計が、コスト面から必ずしも実行されていない点も重要である。このようなコスト・量的要求は、30年代後半になるにつれて強くなっていく。つまり、公団団地における住棟設計の多様性は、発展していったというよりもむしろ合理性のなかで減少していったと見るべきである。それを巧みに補完したのが配置設計技法の発展であった。」
日本住宅公団黎明期における団地設計活動に関する研究

つまり、1956年(昭和31年)日本住宅公団黎明期に建てられた志賀団地はコストを意識しない実験的な設計がなされた問題作だったということです。子供にはそんな難しいことは分かるはずはありません。

とにかくいろいろな住棟スタイル、公園や施設があり、毎日が探検の日々で飽きることがありませんでした。子供にとって楽しい場所でしたのでその団地設計とやらは成功だったのではないでしょうか。

少し大きくなり、団地から周辺に行動範囲が広がったときには、周りには田んぼや畑あるいは造成地が点在し、未完成な街並みの風景が広がっていました。

これも当時の新設団地の特徴で、必ず雲雀(ヒバリ)が春の訪れを告げ、まるで街と里山の中間のような情景でした。なにせちょっと行けば竹細工をやっている農家もあったのです。これは志賀団地から別の新設の団地に移った時も同じでした。

姿を消した実在の原風景

残念ながら志賀団地は住棟の老朽化によって1989年(平成元年)より建て替えが行われ、現在は「アーバンラフレ志賀」となっています。

団地が変れば街そのものが別の姿になってしまいます。住んでいた人々も移ってしまい、もはやそこで昔の知りあいと再会するということはありません。

『耳をすませば』の昭和ノスタルジー

このような生まれも育ちも生粋の団地族の自分には『ALWAYS 三丁目の夕日』よりも『耳をすませば』の様々なシーンに昭和ノスタルジーを強く感じるのです。

『耳をすませば』の設定は1994年ですが、背景は10年前の風景が描かれました。モデルとなった団地は多摩ニュータウンと呼ばれる地域。

1972年に入居開始された愛宕・東寺方団地です。黎明期の志賀住宅とは異なり単調なフラット住棟を配置設計技法で補う手法で建てられています。とはいえやはり単調なことには変わりません。この手の団地にもその後10年ほど住んでいましたので、そちらの影響も多分にあると思います。

下駄を履いた親父の屋上写真

どうしてこれほどまでも団地設計自体に他の人より思い入れが深いのかと考えてみれば、その公団住宅を造っていたのが自分の父親だったからでしょう。

1957年(昭和32年)頃の名古屋市北区の志賀団地にて

しかし、団地の屋上の縁でしかも下駄履きで記念撮影とはまいりました。次回はこの「下駄を履いた親父の屋上写真」にまつわるちょっとしたエピソードです。

今日の一曲はやっぱりこれですね。

少年時代 – 井上陽水 – ap bank fes 12 – LIVE 1080p

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