宴の終わり。それは誰にでも。

20年以上 Apple社の製品とつきあってきたことを知っている知人からはスティーブ・ジョブズ氏の死去について声をかけられることが増えました。



New Age Music Nº36 : Suzanne Ciani – Adagio

追想

ジョブズ氏の死去はたいへん残念で悲しいことです。それを悲しんでいる自分もいつかその日を迎えることになるのです。

しかし Apple社 が消えてなくなったわけでも SONY のようになってしまったわけでもありません。確かにジョブズ氏と 現在のApple は切り離して考えるのは難しいかもしれませが、 Apple社の DNA はジョブズ氏だけのものではありません、Apple社の提示するものは物事を確かな目でみつめればほんとうは普遍的なものと気づきます。

ジョブズ氏は早期手術で命が助かったのに拒否した。

「ジョブズ氏はすい臓がんの中でも完治可能な神経内分泌腫瘍(NET)だった。早期手術で大体の人は助かるのに何故 9ヶ月も受けなかったんだろう?」

“I think that he kind of felt that if you ignore something, if you don’t want something to exist, you can have magical thinking…we talked about this a lot. He wanted to talk about it, how he regretted it….I think he felt he should have been operated on sooner.”

「う~ん…なんというか彼には、自分が何かを無視すれば、自分が何かの存在を望まなければ、呪術思考も持てると思ってた節があるんですね、それでそれまではうまく事が回ってきた…これについてはふたりでだいぶ話しました。彼の方が話したがっていた。どれだけそのことを後悔してるか。….もっと早く手術を受けるべきだった、そう彼も思ってるようでした。」

自分も以前『内軟骨腫』の手術を受けたことがあるのですが、それが『軟骨肉腫』という悪性腫瘍化したらと想像したときのことを思い出すと、何故手術を 9ヶ月も受けなかったのも分かるような気がします。

野狐禅

人によっては、仕事に対する信念は同時に生き方に対する信念である場合があります。

若い頃ニューエイジ・ムーブメントに傾倒していたジョブズ氏は曹洞宗という禅宗に触れていたそうで、彼ほどの強烈な個性の持ち主であれば、実体を持つ存在も変容できると考えたかもしれません。

故スティーブ・ジョブズ 氏と故知野(乙川)弘文老師の交流について_ 曹洞禅

その昔、禅宗の公案集を読みあさっていた頃の『無門関』第二則の「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」がまだ記憶に残っています。

説法の後、いつも残っている老人がいた。和尚が聞いてみると、昔住職をしていたが、ある日修行僧に、悟った人は因果の世界に落ちるかと聞かれ、因果には落ちない、と答えたらそれから五百回も野狐に生まれ変わってしまったという。 老人は改めて和尚に、悟った人は因果に落ちるか、と聞いた。和尚は因果はくらますことはない、と答え、老人は悟りを開いて辞した。 食事の後和尚は山へゆき、野狐の死骸を示し丁重に葬らせた。夜になって和尚が弟子達にこの話をすると、ある僧が、その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた。和尚がもっと近くへ来い、教えてやろうというと、その僧は進み出て和尚の横面を殴った。和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った。

不落因果 不昧因果_黄檗禅

 

この公案は真実禅の悟りに至っていないのに知った振りして話したり、行動したりする人の禅という「野狐禅(やこぜん) 」の語源でもあります。

死生観

メメント・モリ

「自分が間もなく死ぬことを覚えておくことは、私が知る限り、人生の重要な決断を助けてくれる最も重要なツールだ。なぜなら、ほとんどすべてのこと、つまり、他の人からの期待や、すべてのプライド、恥や失敗に対する恐れといったものは、死を前にすると消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。いつかは死ぬということを覚えておくことは、何かを失うと考えてしまう落とし穴を避けるための、私が知る最善の方法だ。あなたはすでに丸裸なのだ。自分の心に従って行動しない理由はない。」

スティーブ・ジョブズ氏

 

スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ_邦訳

Stay Hungry. Stay Foolish.

WHOLE EARTH CATALOG(全地球カタログ)

久しぶりにジョブズ氏の有名なスピーチの一節を読んで、これは「メメント・モリ」を語っていると思いました。メメント・モリ(Memento mori)とは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句で、古代ローマで将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われたと伝えられています。

いろは歌

「メメント・モリ」に限らず、古今東西、この種の戒めの言葉はいくつかあります。日本人ならやはりこれがお似合いでしょう。

色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

ところが、よく考えてみると「いろは歌」は学校で教えられた記憶がなく、正月のかるた遊びで覚えたような気がします。このかるた遊びでことわざも覚えることができました。ことわざの種類は上方や江戸、尾張などで異なっているそうですが、制作会社が江戸かるた版で全国に流通させたためなのか「犬棒かるた」のことわざしか記憶にありません。最近はコンピュータゲームに取って代わられて、いまの子供たちはもう「いろは歌」を知らないかもしれませんね。

かるた_Wikipedia

いろは歌は、涅槃経の「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」という別に雪山偈と呼ばれるの言葉を歌にしたものとも言われます。

この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないこと。
生命のあるものは、いつかは必ず滅びて死に至るということ。
生と滅、つまり生と死が滅しおわる意。現世を超越して仏果を得ること。
迷いの世界から離れた心安らかな悟りの境地が、楽しいものであるということ。

そして荘子の言葉

夫大塊載我以形、労我以生、佚我以老、息我以死、故善吾生者、乃所以善吾死也

『夫れ大塊は、我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり』(「荘子」太宗師篇)

大地は我をのせるために身体をあたえ、我を労させるために生命をあたえ、我を楽しませるために老をあたえ、我を休息させるために死をあたえる。それだから自分の生をよしとするものは、自分の死をもよしとすることになるのだ。

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