天然の無常

最近凝っているアルバムは Patrick O’Hearn の『Glaciation』です。

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氷河の風景を思い浮かべながら、天然の氷ならぬ「天然の無常」について考えています。


Patrick O’Hearn in the studio

被災状況の報道の一方で、未曾有の震災に直面した日本人の秩序の良さが世界から称賛されました。

実際のところ、自然の非常時にその行動原理となるのは、日本という不安定な自然と共に住むことで日本人の DNA に深く刻み込まれた「自然に対する無常観」のような気がします。

ですから地震や津波などの天災と「原発事故」という浅はかな為政者による人災に対する心の中の怒りは違っています。

古典の無常

そして「無常観」と聞いて日本人なら誰でも思い起こすのは、
 

色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 境越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

いろは歌

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす  おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし  たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

平家物語

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

方丈記

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。

夏草や 兵どもが 夢の跡

松尾芭蕉

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平泉町

これらは日本では、誰でもいちどは学び知っている古典です。これらに共感し、味わいを見いだすのも DNA のなせる技なのでしょう。

無常の原則_山折哲雄

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日本の宗教学者で浄土真宗の僧侶でもある山折哲雄氏は、「金融恐慌」のときも「大震災」のときも「無常の原則」を語ります。
 

そもそも無常には、三つの考えが含まれている。この世に永遠なるものは、何一つ存在しない。形あるものは、必ず壊れる。人は生きて、やがて死ぬ。以上の三原則だ。

そして
 

「すべては、はかない。いつかは誰もが死ぬ」という無常観だけでは人間は厭世的になり、生きる気力や希望を失ってしまいかねない。

その意味で無常は、いまだ真理の半面に過ぎない。

釈尊の真意は、無常を通して「この世は修行のための仮の世であり、あの世(霊界)こそ人間の魂が住む本来の世界である」という革命的な真理を説き、人々に人生の意味や本当の安らぎを教えることだった。

と続きます。

ほんとうに無常の原則は三つなのか、ほんとうに「あの世」についてお釈迦様が説いたのかはわかりませんが、一般的な日本人の心情に合っていると思われます。

天然の無常_寺田寅彦

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同様に日本人の精神の根底にあるものとして、寺田寅彦氏の『日本人の自然観』から「天然の無常」もよく紹介されます。

この『日本人の自然観』は、晩年の1935年(昭和10年)に記された日本の自然や日本人の日常生活、精神生活についてのエッセイなのですが、科学と文学を調和させた文章は現代人にとっても読み易く、説得力のあるものです。
 

日本人の精神生活

単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。

山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。

また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。

仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。

思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。

鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。

日本人の自然観 寺田寅彦_青空文庫

明治から昭和初期の時代、今から70年以上まえの著作を読んでいて、現在の人々よりも豊かな知識と洞察力を持ち合わせているのに驚かされることがあります。

寺田寅彦氏と漱石

寺田寅彦氏は、夏目漱石とは熊本第五高等学校での生徒と恩師という関係であり、一番弟子といわれ、また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれています。その顛末は『夏目漱石先生の追憶』というエッセイに書かれています。

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「吾輩は猫である」挿画でつづる漱石の猫
 

「虞美人草」を書いていたころに、自分の研究をしている実験室を見せろと言われるので、一日学校へ案内して地下室の実験装置を見せて詳しい説明をした。

そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン写真にとることをやっていた。「これを小説の中へ書くがいいか」と言われるので、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので、偶然そのころ読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。

それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領をのみ込んで書いたのが「野々宮さん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。

夏目漱石先生の追憶 寺田寅彦_青空文庫

これを読んでふたたび『三四郎』のその部分を読み返してみると、漱石の表現力のすばらしさを再認識させられます。

漱石と電子ブックとニューエイジ音楽 04_SUDAREの部屋

あの世」についての折り合い

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European Organization for Nuclear research

反物質
 

日本の東京大学や理化学研究所が参加した欧州合同原子核研究機関(CERN、ジュネーブ)の国際研究チームは、通常の原子などと反対の電気的性質を持つ反物質の一種、「反水素原子」を世界最長の16分以上(1000秒間)にわたって閉じこめることに成功した。

読売新聞

反物質:質量とスピンが全く同じで、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される物質。

幽霊エネルギーとビッグリップ
 

時間とともに影響が強くなるダークエネルギーは「ファントム・ダークエネルギー」として理論的に提唱されています。

反発力が強くなるので宇宙はさらに加速度的に膨張します。あまりに膨張のスピードが速いために、それまで宇宙膨張から切り離されて重力で束縛されていた銀河などの構造が崩壊してしまいます。

さらに時間が経って膨張が速くなると星も原子に分解され、最終的には宇宙膨張が強い力による束縛力にも打ち勝ってしまい、物質の最小構成要素である素粒子にまで分解されてしまうと考えられています。

 宇宙はこれからどうなるのですか?

これらも現在の「生」とは別の世界の話です。「あの世」が「この世」でないところならば、いろんな「あの世」があるのかもしれません。

現代に生きる人々は「あの世」について形而上だけでなく、こんな最新の科学知識と「こころ」のシャーマニズムと「折り合い」をつけなければならないのです。

仏教の解説書によっては、「釈迦は魂の存在を否定した」とか「あの世の存在を否定した」と書いてあったりすることがありますが、どうもお釈迦さまは魂やあの世の存在を否定も肯定もしていないような気がします。

ほんとうはそんなことはどちらでもよかったのでしょうか。

お釈迦さまが、在るほうが安らげる人々には「ある」、無いほうが安らげる人々には「ない」と語ったとしても不思議ではありません。本質は別のところに在るので、どうぞお好きにといったところですか。

「ガラス戸」という見えない落とし穴

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ヴァヤダンマー、サンカーラー、アパマーデーナ、サンパーデーター

全てのものは移り行く、怠らず勤めよ。

「諸行無常」ですね。

なにせ紀元前480年ほど前のことですから、真偽のほどは分かりませんが、お釈迦さまの最後の言葉として語り継がれています。

柿の種

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無防備にこの無常観に囚われると厭世的になり、生きる気力や希望を失ってしまいます。

しかし、「天然の無常」という遠い遠い祖先からの遺伝的記憶を持つ日本人が生きる気力や希望を失って消滅してしまったという話は聞いた事がありません。そこには、「ガラス教育」があったからでしょうか。
 

秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。

郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。

しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の鶯の死骸である。

かわいい小さなからだを筒形に強直させて死んでいる。北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震盪を起こして即死したのである。「まだ暖かいわ」と言いながら愛撫していたがどうにもならなかった。

鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。

人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。

三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。

この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。

柿の種 寺田寅彦_青空文庫

「ガラス戸」という見えない落とし穴は、人によって様々です。また極めて個人的に収束するものから国家の命運に波及するものまで規模も違います。
 

5月の全国の自殺者数(速報値)が前年同月比で 17.9%の大幅増に転じた。東日本大震災との関連は不明だが、蓮舫氏は「看過できない」と述べ、原因を早急に調査する考えを示した。

警察庁のまとめでは、5月の自殺者数は 3281人で、前年同月に比べ 499人増。今年1~3月は前年同月比10~17%減で推移していたが、4月には3.2%増になり、5月になって大幅に増加した。

都道府県別の自殺者数は大都市圏で多く、最多の東京都は 325人で前年同月比 70人増。神奈川県は 210人(同 50人増)、埼玉県は 201人(同 44人増)、愛知県は 185人(同 52人増)だった。震災で大きな被害が出た福島県は前年5月に比べ 38.8%増の 68人(同 19人増)、宮城県は前年同数の 50人、岩手県は 8.6%減って 32人だった。

朝日新聞_2011年6月10日

国旗掲揚と国歌斉唱を拒否して公務員なのに法律を否定する、戦後の民主教育という名のもとに集った偏向教師達から、大震災のショックという突然現れた眼の前の「ガラス」を避ける古来からの日本に生きる術(すべ)を学んでいないからなのでしょうか。

「ムダじゃ、ムダじゃ」

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むかしTV アニメのムーミンで、自称哲学者のジャコウネズミ(愛読書は「すべてがむだであることについて」)の「ムダじゃ、ムダじゃ」という言葉が耳に残っていて、いまでもときどきそのことを考えるときがあります。

スナフキンが「ならば、あなたが生きている事もムダなのか?」と問う場面もありましたが、これは眼の前の「ガラス」を見そこなっていることを指摘しているのでしょう。

「世は定めなきこそいみじけれ。」

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吉田兼好の強烈に無常観を主張している『徒然草』も「世は定めなきこそいみじけれ。」と達観し、生きる気力の源にしています。
 

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。

命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

現代語訳
 

あだし野の墓地の露が消える瞬間がないように命は儚く、鳥部山の火葬場の煙が絶えないように命は蒸発していく。もし灰になった死体の煙のように命が永遠に漂っていたとすれば、もうそれは人間ではない。人生は幻のようで、未来は予想不能だから意味があるのだ。

この世に生きる生物を観察すると、人間みたくダラダラと生きているものも珍しい。かげろうは日が暮れるのを待って死に、夏を生きる蝉は春や秋を知らずに死んでしまう。

そう考えると、暇をもてあまし一日中放心状態でいられることさえ、とてものんきなことに思えてくる。「人生に刺激がない」と思ったり、「死にたくない」と思っていたら、千年生きても人生など夢遊病と変わらないだろう。

永遠に存在することのできない世の中で、ただ口を開けて何かを待っていても、ろくな事など何もない。長く生きた分だけ恥をかく回数が多くなる。長生きをしたとしても、四十歳手前で死ぬのが見た目にもよい。

その年齢を過ぎてしまえば、無様な姿をさらしている自分を「恥ずかしい」とも思わず、人の集まる病院の待合室のような場所で「どうやって出しゃばろうか」と思い悩みむことに興味を持ちはじめる。没落する夕日の如く、すぐに死ぬ境遇だが、子供や孫を可愛がり「子供たちの晴れ姿を見届けるまで生きていたい」と思ったりして、現実世界に執着する。そんな、みみっちい精神が膨らむだけだ。そうなってしまったら「死ぬことの楽しさ」が理解できない、ただの肉の塊でしかない。

徒然草 第七段

今宵も、眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人にならぬよう、静かに想いを巡らしています。


Vangelis – “Flamants Roses”

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