メメント・モリ

桃に琴弾き、舞う花吹雪、目には青葉の時節に移ろうとしています。 …


SHADOW OF TIME/NIGHTNOISE

震源によっては、今年の桜をめでることができなかったのは自分かもしれません。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり
道元禅師

形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋のもみぢ葉
良寛禅師

再びCMについて

時が流れ、ピント外れの道徳CMの嵐が終わったと思ったら、 知らない芸能人たちのガンバレコールの連呼。そして災害を企業イメージの向上に結びつけるための過去の出演者の応援歌唱メドレーCM。

やはり TV はどうしようもない世界になってしまったようです。

それにしても大きな余震が続いています。いまはまだ流れに身を任せる段階ではなく、まだ危機の中にいるということを意識させられます。事態はもっと深刻で長期戦なので、CM を見て奮い立った人々が「燃えつき症候群」にならなければと心配です。気持ちをもっと静かに深く大きく持って災害に立ち向かっていきたいものです。

一寸先は闇

偶然にも日付が同じになったのですが、アメリカの「9.11」、日本の「3.11」

「9.11」以降アメリカは変わりました。まだ日本の多くの人は、「3.11」を境として心の深いところで何かが目覚めたことに気がついていないのでしょう。しかしそれが政治、経済、思想に徐々に影響を与えていき、はっきりと分かる時が来るかもしれません。

「9.11」は歴史的背景、「3.11」の場合は自然現象に人災が加わったのが原因です。どちらも可能性としての予測はできたのでしょうが、実際に、いつどのようなかたちで起きるのかを特定することは難しいことです。

ただ、その「11」を語るときに共通する気持ちには、人はその認知できる範囲についての未来を想像することはできるのですが、ほんとうは明日のことさえ分からない、ほんの1秒先のことでさえ知るのことができないということがあります。

そんなことを考えていると徒然草の一節が思い出されました。

「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

徒然草第93段 牛を売る者あり_吉田兼好

誰でもみんな、本当にこの生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないのではなくて、死の近いことを忘れているのだ。しかし、もしまた、生死というような差別の相に捉われないと言う人があるなら、その人は真の道理を悟り得た人と言っていい。

日本人の死生観

自然の不思議

自然災害は人為的なものではありませんが、東日本大震災の福島原発問題を単なる「事故」として他人事のように扱うには抵抗があります。それが天災であれ人災であれ、結果的に自ら日本の国土を穢してしまったという悲しさはどうしようもありません。

しかし、経済成長のために国土を切り刻んだり汚したりしても、自然はまたいつかまた再生するという希望はあります。

たとえば、これは先日の『スタジオジブリ物語』で宮崎駿監督も語っていましたが、世界的にも「ミナマタ」の名で知られる有名な水俣病の原因となった水銀による海の汚染でさえ、自然は不思議な浄化作用を見せています。
スタジオジブリ物語_SUDARE

1983年、水俣湾の海底で独自に進化した驚異の細菌を発見。水銀に耐えるだけでなく、分解、帰化させる能力を持っていました。水銀耐性菌の一つ、わずか1ミクロンほどのシュードモナス菌は、自分たちの生存に不都合な水銀そのものを食べてしまうのです。そして、そのメチル水銀を、金属水銀とメタンガスに分解、吐き出します。分解されてできた金属水銀はやがて気化し、自然の水銀サイクルの中に組み込まれていくのです。さらに驚くのはこの細菌はまったく違う種類の違う他の細菌にもコピーして伝達することができるのです。海の中では莫大な数の細菌たちがもくもくと水銀を分解し、海のお掃除をしていたのです。そして役割を終えた耐性菌はその能力の元となる遺伝子を捨て去り、またもとの普通の菌に戻ります。自然の浄化のメカニズムは神秘そのものなのです。

「死の海からの復活」~ミクロ生命体が奇跡を起こす~_素敵な宇宙船地球号

知恵を絞り、あらゆる努力をして放射性物質に汚染された土地や海を浄化するとともに、自然の持つ浄化のメカニズムが働いてくれることを祈るしかありません。

The Ancient Of Days – Jonn Serrie

付録:過去ログメモ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

メメント・モリ

公開日:2007/04/16 00:00


Mementomori_藤原新也

カオナシ

「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ。」

これは久々に手に取った『メメント・モリ』の冒頭に書かれた言葉。
ふと宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』にでてくる「カオナシ」を連想しました。
ひょっとして宮崎駿監督も『メメント・モリ』読んでいるのかも。

「いのち、が見えない。生きていることの中心(コア)がなくなって、ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で含むとシュッと溶けて情けない。しぬことも見えない。」

と続きます。

宮崎駿監督は『千と千尋の神隠し』のねらいで、

今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

子供達はハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。

ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。

と語っています。

不思議の町の千尋_監督の言葉_この映画のねらい 宮崎駿

「場所」「死」。どちらにしても逃げることのできない「時の流れ」の現実から逃避した人間は顔が無くなってしまいます。いくら逃避しても「時の流れ」から抜け出ることはありません。これから年々増え続け、20年後には年間100万人に達するカオナシの死者の群れ。その最後の瞬間、カオナシ達は何を感じ何を考えるのでしょう。死に行くものだけでなく、残されたカオナシ達は死が日常的になる現実に何を学ぶのでしょう。

印度放浪

藤原新也氏の作品との出会いは、「印度放浪」(1972)からです。高校生の頃に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」という言葉が添えられた犬が死体を喰っている写真にショックを受け、ほんものの写真と言葉のもつ力を実感したのです。同時に一般メディアに対して空虚さを感じるようになり、いつも一歩引くようになりました。その後も時代の変わり目ごとに作品が発表され、藤原的視点での「時の流れ」のなかのいまの自分の位置を再確認をしてました。しかし、やはり藤原新也氏の作品のなかでは『メメント・モリ』が始まりであり、終着点ではないかと思います。同時に「死は生のアリバイである」と語る『メメント・モリ』の題名の言葉Mementomori(死を想え)という言葉が年々深く突き刺さってくるのです。

松岡正剛の千夜千冊 第百六十夜 藤原新也『印度放浪』

メディアの空虚さについて

『千と千尋の神隠し』で宮崎監督は性風俗を描こうとしていたと自ら主張しているのにメディアはその部分だけ取り上げないという話。「風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」というようなことを宮崎監督に話したら、「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。ちなみに「プレミア」誌のインタビューで鈴木プロデューサーは「カオナシは宮崎監督だ」と言っている。」

「千と千尋」はなぜ「湯女」なのか

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