Kitano par Kitano

北野武(63)が、フランスで出版された自叙伝「Kitano par Kitano」の日本語版発売を機に、ニッポンの問題点を縦横無尽に語った。 …

[/SIZE][/B]ウオッシュレット付きトイレの落書き

「コンピューターは嫌い。メールも嫌い。携帯電話は車の中にあるけれど出たことない。ツイッターだって、冗談の言い合いをしたり、遊ぶんならいいけど、あれを情報として扱っているバカさ加減はよく分からないね」北野武

Twitter は「便所の落書き」よりもお上品な、ウオッシュレット付きトイレの落書きといったところですか。

絵心のないひとが文字を使って描くネットワーク版落書きと割り切ってしまえば、どうってことありません。そこから見えてくるものはほとんど何もありませんが、時間潰しにはいいようです。

これを記録して保存しておけば、仏閣修復のときに発見される大工の落書きのように、今生きている人々がほとんど姿を消す 100年後、歴史学者が平成の庶民の遊びの中に時代の閉塞感や屈折感を見いだす資料としては価値がある貴重な資料になるかもしれません。ただ内容のわりには量がやけに多いので解析の時間の無駄に閉口するかもしれません。そんなときのクジラのような顔をして困惑している姿が目に浮かびます。


まあ、所詮このブログも同じことかもしれませんが。

[/SIZE][/B]雑踏の中の孤独

そして小椋佳の落書き

『落書きII』

廻りはすべて きたなく見えて
ふと 少女にあこがれては
汚れきった心の中の 泥沼に気づく

仲間とはしゃぎながら 一方では
雑踏の中の孤独を愛するなんて

「情報って、町を歩いていれば入ってくる。テレビとかなるたけ見ないようにしても、なおかつ入ってくる情報は正しいと思う。でも、今の人たちは情報を探しまくるんです。自分で追いかけるから、たどりついた情報は、たいしたことなくても、すごい情報だと思ってしまう」北野武

雑踏の中の孤独だから見えてくる情報があります。それはけっして「画像」や「文字」といった分かり易い表現ではありません。その漠然とした「何か」が次第にカタチになってくるのを孤独に耐えて心静かにじっと待つしかないのです。カタチになるまえにドロドロと溶けて消え去ってしまうこともあります。消え去っても、何年か後に、突如としてカタチが出現することもあります。不思議です。

「情報ってだれが出してるんだってことですよ。広告代理店はじめ、いろんなところが、次はここに行かないといけないとか、流れをつくっていくわけですよ。それにみんな家畜のように、檻から檻へと動かされている。その構図が格差を生んでいるのに気づいていない」北野武

そんな広告代理店のつくるながれは、実はもっと大きな流れに流れ込む下水を流しているだけかもしれません。そんな風景を空を飛んでいる鳥たちは見ているのでしょう。

[/SIZE][/B]百合の花

安けりゃいいのか 「今の日本って、品がいいとか悪いとか言わなくなったね。おれらが子供のころは、そば屋に行列するとか立ち食いとかは恥ずかしいという感覚があったけど、今は、みんな立ってものすごい勢いで食べてる。どうしてこう下品になったか」

「電車の中の化粧なんて、酔っぱらいの立ち小便と同じようなもんだけど、平気でするようになっちゃった」北野武

立(た)てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん)歩く姿は百合(ゆり)の花。

「ゆり」は知っているけれど「しゃくやく」「ぼたん」をじっくりと見たことがありません。
ただ、「凛」という文字には憧れます。こころのなかに「凛」という音色をもつ女性が今でもいるのかどうか知りたい気持ちはあります。

海辺の恋/小椋佳

[/SIZE][/B]相対的な価値観

「貧乏を貧乏の中に封じ込めて、その中で金を回すという商売が多すぎるんだよ。服でも食べ物でも、安売りの品だけを買ってたり、安くて早くてという所に並んでばかりだと、絶対上に上がれないよ。3回食べるのを我慢して1回にしなさい。その代わり1000円のやつをゆっくり食う。服も同じ。昔の教育はそれを教えてたはずなんだけど」北野武

「志」「誠」。団塊の世代のおじさん達が自分のことを棚に上げて叫んでいます。でも和洋新旧いろんな「志」「誠」が飛び交っていて、ほんとうのことは分かりません。相対的な価値観で溢れてしまって、浮いているだけで精いっぱい。いっそのこと潜ってしまえば楽になるかもしれません。

小椋佳/飛べない蝙蝠

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