あめりか屋

先日「あめりか屋」のおばが亡くなったという知らせ。

あめりか屋

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「あめりか屋」とは正式名「アメリカ屋温泉客舎」といい青森県の碇ヶ関にある温泉旅館です。

昔、弟と一度訪ねたことがあり、いろいろ記憶に残る温泉旅館だったことを覚えています。この「あめりか屋」というネーミングは、聞いた話によれば、この「あめりか屋」を始めた人がこの村で初めてアメリカに行ったからということでした。

そこで今回もう少し詳しくネットで調べてみると、それまでは昭和の頃にこの村で初めてアメリカ観光旅行に行った親戚が始めたのだと勝手に想像していましたが、これがまったく勝手な勘違いなことが分かったのです。

碇ヶ関の温泉

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碇ヶ関の産業のひとつは温泉であり、かつては「湯の端通り」と呼ばれる平川沿いに湯治宿があった。古くは熱の湯、冷えの湯と言われる二つの温泉と中ノ湯があった。『縣治一覧表』(明治11) では、浴戸数2、浴客数200人が記されている。

『新選陸奥国誌』では「碇ヶ関村に二大区十一小区 三所あり」となっている。1852年に吉田松陰は「嶺を下り橋を渡りて關に入る。乃ち津輕の置く所、 驛を碇關と曰ふ、温泉あり、浴す。」と記している。

松陰から50余年の歳月を経て、『津軽っ子』には「冷えの湯」から流れ込む温泉でお湯になってい る川で洗濯をしたり、そのお湯を茶碗洗いやぞうきんがけ用に汲みに行ったこと、獲ったいなごを 川で茹でたことなどが記されている。

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「冷えの湯」「熱の湯」はそれぞれ「上の湯」「下の湯」と呼ばれていた。

当時の平川は河川改修後の現在の姿とは異なり川幅も半分しかなく、葛原旅館から下りる坂の突き当たりに冷えの湯があり、その下流に熱の湯があった。

川岸のこれら二つの温泉と大正時代から昭和にかけてあった温泉客舎や長屋は度々の洪水に流され人命も失われた。

現在は、平川は改修され、川岸の家は移住し、二つの温泉は、川の中に消え、平川が真っ直ぐに流れている。

かつての葛原旅館のすぐ 後ろの川岸に「上の湯」の碑があり、三笠橋を挟んで続く細い道路を2、3軒先に進むと「大湯 (下の湯)」の碑がある。河川改修でこれらの温泉が消えたのは昭和40年代である。

「あめりか屋」旅館

アーネスト・サトウの『明治日本旅行案内』には碇ヶ関の宿として、葛原大介宅と北川源八宅 の二つが出ている。碇ヶ関村もイザベラ・バードの泊まった葛原旅館と村の有力者である北川源八宅が紹介されており、バードからの情報によることが考えられる。 源八宅は宿屋ではなく、居宅を宿泊に提供したといことである。現在の碇ヶ関の「あめりか屋」旅館は源八の兄弟が明治20年代にアメリカに渡りその後碇ヶ関にもどり明治末に始めた旅館である。

かつての葛原旅館の正面に店がある。北川源八の弟の北川平吉が起こした店。古くは反物や雑貨を商ってい たという。 源八には上から源八-直吉-カヤ-平吉-健八-常吉-鴻(現あめりか屋)の兄弟がいた。健八、常吉、鴻 の三兄弟がアメリカに渡った。

弘前大学大学院地域社会研究科年報 第1号(2004年)

アーネスト・サトウの「明治日本旅行案内」

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アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 – 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。明治日本旅行案内 明治期における西洋の日本研究書の頂点に立つ名著。

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」

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イザベラ・バード (Isabella Lucy Bird、1831年10月31日 – 1904年10月7日)はイギリスの女性旅行家。日本では明治時代の東北地方や北海道などを旅行し、『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。

日本奥地紀行 日光から新潟、 山形、 秋田、 青森と旅した明治時代の東北の記述や、アイヌ村での生活・習慣の観察が広く研究対象となってきた著作。

アメリカに行ったことは確かでしたが、なんと明治時代のことだったのです。しかも明治期のイギリス人ジャパノロジストが絡んでくるとは思いませんでした。

うーんすごい。

おばさんがこの「あめりか屋」を維持しようと必死だった理由が分かったような気がします。

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現在は改装されてタイル張りになっていますが、自分の記憶では木組みの浴場だったと思います。その薄暗い照明のなかでこじんまりとした鄙びた感じが温泉を感じさせてくれました。


子供ねぷた

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この「あめりか屋」で夕食後、窓の外の遠くで子供たちの掛け声が聞こえてきました。

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窓を開いて外を見てみると、夕暮れの薄暗い川面の向こうを子供ねぷたを子供たちが元気な掛け声で曳いていく姿があります。

そのちいさなねぷたの光がゆらゆらと川面に映りかわいい掛け声とともにゆったりと進んでいく様は、前日見てきた街での大掛かりなねぷたとは対照的でシンプルで簡素でしたが、感動的でした。

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「ねぶた」と「ねぷた」

青森のねぶたが牛若丸と弁慶など、人形を組み合わせた組みねぶたであるのに対し、弘前のねぷたは扇型の骨組みに武将の絵をかいた、扇ねぷたと呼ばれています。

弘前ねぷたまつりは、三国志や水滸伝など勇壮で色鮮やかな武者絵が描かれた大小約60台もの扇ねぷた(燈籠)と組ねぷた(人形)が、弘前の街を練り歩きます。

「火扇」とも称される扇形の灯籠が市街地を練り歩き、勇ましく力強い「ヤーヤドー」の掛け声とともに、ねぷたが整然と行き交う様子から、戦への出陣の祭りと言われています。


ミイラ

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このとき自分が津軽藩の家老の遠い血筋ということで、歴代津軽家当主の菩提寺長勝寺に足を運んでいます。

このお寺は弘前藩藩主の養子で、17歳で死亡した(江戸末期)ミイラ化した遺体が御影堂に安置されていたことでも有名です。(阪神大震災をきっかけとして、津軽家によって火葬されたそうです。)

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その御影堂を拝観したときのことです。弟と二人その御影堂に案内されたのはいいのですが、案内の方がどこかに行ってしまったのです。

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真夏の昼下がり、光りまばゆい外とは対照的にしんとした薄暗い室内には、両側に歴代藩主の仏壇がずーっと奥まで並び、その一番奥の祭壇の後ろ側にそのミイラが安置されていたのです。

ゆっくりと仏壇の前を通り過ぎて祭壇のうしろに回ったのですが、怖かった。

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それは夏の日の長く静かな、今まで経験したことのない時間。


本日の一曲


【青森・八戸】雪だるまつくろう 八戸弁(南部弁)ver 【アナと雪の女王】

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