バームクーヘンの悲しみ

20160217_00-2006-12-30-15-14.jpg

過去の自分のブログを読んでいると、なんと一貫性がないのだろうと感じています。

単語、文節、文体が気分によって毎回微妙に変化してしまっているのです。

どうしてこんなに自分の頭の中はばらばらなのだろうかとため息が出ますが、 もともと考え方が、何かの拍子にキーワードが浮かび、それに現実の事象をあてはめ流れを読み取るということが多く、突発な事象によってよくブレます。

人工の運河のようにデータに基づいた論理的な理論構築はあまり得意でないので、天然の河川と同様、まあこんなものだと諦めています。

「個性化」という消費社会

論理的な事由を求められるときには、今のご時世、ブログや掲示板にいろいろな考え方が書き込まれ引用され差異が相対化されていますので、オリジナルっぽいけど実はコンサバな考え方はすぐに手に入れることができます。

これが「Web2.0 = 大衆即席文化」のメリットですからその成果は多いに享受しています。

でも本音は、60-70年代の強烈なオリジナリティの嵐、毎週ヒットチャートが新しい強烈なオリジナリティを持った曲で入れ替わり、それぞれが共存して大きな流れを作っていた時代がもう一度来ないかなと願っています。

しかし、「個性化」という消費社会によって価値観がバームクーヘンのように細かく多層化されてダイナミズムを失ない、充分に熟成するための時間と空間を持たないネット文化が普及した時代には難しいかもしれません。

20160217_01-2006-12-30-15-14.jpg

ジャン・ボードリヤールが指摘していたことだが、
生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている。
 

銀行は銀行の維持のために、大学は大学の維持のために、百貨店は百貨店であることを、議会は議会を自己言及するために、そこに生じている生産と消費を食べ尽くしている。

より充実した消費社会をつくろうとすればするほど、その消費社会を学習し、それに伴う手続きを普及させるためのコストが、その消費構造を破ってしまうだろうと見ているところなのだ。

このコストがどういうものかをボードリヤールは指摘できていないものの、それが最小共通文化(PPCC)と最小限界差異(PPDM)のために払われて、結局はシステムを根こそぎ割りのあわないものにするだろうことについて、あれこれの事例をあげて説明しようと試みていた。

とくに「個性」や「個性化」を消費社会が重視すればするほど、実は消費社会がその「差異」の内在化によって腐っていくことを指摘した。

「今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ」

だから、多くの企業や消費者がありがたがっている「個性化の戦略」こそが消費構造のダイナミズムをことごとく消し去ってしまうのだ、気をつけなさいねというふうに。

それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落としてしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、まずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。

しかしここには、いったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれて、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もしない問題も待ちうける。

もうひとつは、「メッセージの消費というメッセージ」が頻繁に出回ったときにどうするかという問題だ。この後者の問題は、ボードリヤールの予測よりもなお急速に、いまやインターネットの海の出現によって現実化してしまい、どんな記号の差異や意味の差異もが、つねにウェブ状の相対的自動更新にゆだねられてしまったかに見える。

千夜千冊0639夜 消費社会の神話と構造

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中